THE EPOCH TIMES

芸術を愛した皇帝 北宋・徽宗の明と暗 

2018年02月14日 22時00分

 確かに徽宗の作品は、世界的にも第一級の美術品と言われている。書の分野では痩金体という独特の書体を創出し、絵画では写実的で精密な院体画を確立した徽宗は、後世の人々から「風流天子」と称された。

 その称号は、称賛と揶揄のいずれにもとれるが、中国伝統文化という基準で採点するならば、徽宗は明らかに皇帝として不合格であろう。

 唐の玄宗が歌舞音曲を愛したように、皇帝が芸術を好む文人であること自体が悪いのではない。ただ、徽宗が没頭した芸術は、結局は自分の趣味であり、現実からの逃避的な愛好だった。つまり徽宗の趣味は、もとより天下万民ために役立てるべき中国伝統文化ではなかったのである。

 徽宗は、自らの贅沢のため民衆に重税を課すなど、悪政を繰り返した。また、北方の異民族が虎視眈々と中原の地を狙っているときに、自己の趣味のために南方から造園用の巨石や巨木を運ばせるなど、莫大な国力を浪費したことも災いした。

 1127年、金軍の前に開封は陥落し、北宋は滅ぶ。以後は、南方の臨安(杭州)に都を移し、南宋(1127~1279)として存続する。

 中国伝統文化の真髄

 中国伝統文化とは、皇帝から庶民に至るまで、また漢民族のみならず周辺の異民族まで正しく感化するような、大きく懐深い教育力をもつものである。ただし、それには先述したような必要条件がつく。皇帝自らが、中国伝統文化の保護者であり、また実践者であることだ。

 皇帝が、その使命に則して誠心誠意つとめるならば、唐の太宗や清の康熙帝のように、中国史上の名君として末代まで尊敬される。

 しかし、これに反すれば、暗愚の帝として、あるいは無教養の恐るべき暴君として、歴史は厳しい評価を下すであろう。その結論は、徽宗の例を見るまでもない。皇帝がいなくなった近代以後の中国においても、この原則は変わっていないのである。

(2013年3月25日)

                                                                   (穆梅香)

LINE NEWSに『中国の今を伝える 大紀元時報』を登録する方法
^