「原子先生、寺島先生」【私の思い出日記】

「とにかく、浮かんでくる言葉を書きとめて、ためていくのです」。

これは30数年ぶりに再会した、中学時代の担任の原子修先生の言葉だ。
国語の先生で、オールバックの髪型で、澄んだ目がいつも遠くを見ていた。淡々と行われた授業はちっとも面白くなく、職員室でも他の先生方とむれず、いつも一人だった。

中三の時に転校したので、その後は一度も原子先生に出会うことはなかったが、中学時代を思い出すと、いつも原子先生が出てきた。そして32年後の1995年、朝刊で「日本詩人クラブ賞受賞 原子修」というのを発見して、飛び上がるほど驚いたが、納得もできた。そういう人だったんだと。

日本詩人クラブに連絡して、住所を聞き、お祝いのお手紙を送ったら、丁寧な返事がきた。それから数年して札幌への出張の時、大倉山のレストランで会うことができた。先生の近況(札幌大学の教授)や活動、家族の話をきくことができた。私のことにはあまり興味がなさそうだった。私の自己満足のような邂逅で、恩師との感動の再会とまではゆかなかったが、私の思いは果たすことができた。

その後も先生は数々の作品を発表されている。年賀状には、いつも不可解ながら熱い言葉が並んでいた。頭の中をいつも言葉が巡回しているのだと思う。そして15年くらい前、これで賀状を最後にしますとの葉書が届いた。札幌でご健在。どこまでも孤高の人。

高校は東京の高校だった、一応進学校だったがあまり、勉強には真剣ではなかった。2年生の時、数学の担当に「寺島先生」が着任した。高校の数学の世界では有名で、教科書の後ろにも名が載っているという評判。それだけで舞い上がってしまった。でもお酒が好きで、アル中気味で脳溢血で一度倒れたらしいと。益々興味が沸いてきた。

そして先生の登場。よれよれのシャツに腰にはタオルが挟んであった。最初の挨拶が「僕が授業中に倒れても決して、大丈夫ですかとか言って、体をゆすらず、そのままにして、助けを呼ぶように」との言葉であった。それが面白くて、それでも有名な先生だと思ったら、ますます魅せられてしまった。

それからは数学の授業は、いつも先生をじっと見ていた。どんな授業内容だったかは全く覚えていない。でも数学には真剣に取り組んだと思う。とにかく、この人はなんなのだと、興味深々だったのである。ある時、担任に呼ばれて、「寺島先生が、小泉(私の名)は授業中、いつもおれの顔をじっと見ているが大丈夫かと、心配してた」と言った。なんと答えたかは記憶にない。

そして、ある日の放課後、渋谷を歩いていたら,むこうからさえないおっさんがふらふら歩いてくる。なんと寺島先生であった。私を見ると一瞬足を止めて「おっ。小泉か。お前はよくがんばってるぞ。よろしい」と言って、またふらふら歩いていった。

本当に愉快な先生との出会いが、今でも楽しく思いだされる。