大紀元時報
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≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-
1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(1)

はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことは...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(2)

第一章  中国への旅立ちと期待 1944年3月、8歳のとき、私は両親と一緒に新潟港を出発し、日本海を西へ向かって中国へ旅立ちました。それが自分の運命に、そして一家...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(3)

この結末を聞いて、私はとてもほっとしました。母は私に、「みんなが互いに助け合い、励まし合えば、どんな困難をも克服できる勇気と自信が生まれる。そうすれば、きっといい...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(4)

この時、乗客の皆は船を降りて上陸する準備をしていましたが、母は私が見当たらないのに気が付くと、あわてて至る所を探しました。母が呼んでいるのを聞きつけて、私はすぐさ...

著者の父(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(5)

私たちが中国へ旅立つ前、父は祖母の家へ行って、中国行きについて相談しました。祖母は、父が家族全員を連れて行くことに反対でした。父は祖母にとって一人息子で、その上祖...

著者の父(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(6)

私たちが父と一緒に船に戻ったとき、母はもう弟の力を寝かしつけ、みんなの布団を敷いてくれていました。しかし、私はもう全く眠くありませんでした。おそらく、ここ数日間、...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(7)

私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。そして、三日目の午前、中国東北部の大連市のそばにある旅順港に到...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(8) 「裏切られた期待と開拓団での生活」

第二章 裏切られた期待と開拓団での生活  私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(9)「裏切られた期待」

大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そ...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(10) 「裏切られた期待」

それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。 

著者の一番目の弟・一(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(11)「裏切られた期待」

私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをして...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(12) 「裏切られた期待」

開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(13) 「裏切られた期待」

私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。

著者の父(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(14)「父との永遠の別れ」

第三章 嵐の訪れ:父との永遠の別れと苦難の逃避行 父との永遠の別れ 1945年8月、稲妻と雷が激しく交じり合う嵐の夜、風雨がガラス窓を強く叩き、大きい音を立てて響...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(15) 「苦難の逃避行」

苦難の逃避行 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(16)「苦難の逃避行」

そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(17)「苦難の逃避行」

私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(18)「苦難の逃避行」

日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(19)「終戦」

私たちがここに到着した次の日、雨が降り始めました。雨は激しく強風混じりで、少し肌寒く感じました。幸い、今は家があり、家の中にいれば、どうにか暖かく感じました。

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(20)「再び逃避行」

再び逃避行 今回は山奥の森林地帯を歩きました。大人の人たちが言うには、獣が出没する恐れがあるから、暗い森林の奥に入ってはいけないということで、私たちはしかたなく山...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(21)「収容所での生活」

その日の夜、馬蓮河屯に着きました。そこはとても大きな村で、西には牡丹江から図們(トゥーメン)に行く直通汽車が走っており、南には大きな河・馬蓮河があり、鉄道の東側、...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(22)「全財産が……」

しかし、新たな嵐が密かに私たち家族に忍び寄り、私たちのすべてを奪い、家族の運命を決めたのです。

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(23)「伝染病の流行」

伝染病の流行 しかし、この時期、全ての人にとって、さらに恐ろしい災難が降りかかろうとしていました。この頃になると、人々はすでに明らかな栄養失調になり、体力は衰弱し...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(24)「中国人家庭へ…」

生まれたばかりの弟の死 すでに十月に入り、次第に冷え込んできました。団長はすでに段取りを済ませ、開拓団全員をひきつれて沙蘭鎮の王家村に帰り、そこで冬越えをしようと...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(25)「生まれたばかりの弟の死」

11月に入ってから、急に冷え込み始めました。日中の時間も次第に短くなってきました。ソ連軍がしょっちゅう家に押し入ってきて、女性を連れて行くという噂を耳にしました。...

著者の一番目の弟・一(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(26)

第四章 独り暴風雨の洗礼に直面する 母、弟たちとの永遠の別れ 私が孤児になる運命がすぐそこまで近づいていようとは思いもよりませんでした。運命の手が今すぐにも、慈愛...

著者の母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(27)「母との永遠の別れ」

実は、よその家の子供たちはすでに、次々に中国人の家に引き取られていっていました。

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(28)「中国人の養子に…」

養母の苛めに遭う 私と弟はこのようにして中国人に連れていかれました。私たちはかなり長時間歩いて、夕方前にやっと沙蘭鎮に到着しました。

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(29)

私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来て...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(30)「『お馬鹿さん』と呼ばれ…」

ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではない...

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