≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(32)「慈愛に満ちた養父」

私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。

 この日、私は西棟の南の間の王おばさんの所に泊まりました。数日して養父が私に会いたいというので、私は恐る恐る部屋の中に入り、まず一礼しました。養父はもう座ることができるようになっており、私に名前と歳を聞きました。私は中国語で、「劉淑琴」という名で、年が明けたら9歳だと答えました。養父は、私が聡明で礼儀正しいとほめてくれて、中国語を覚えるのが早いし上手だと言いました。養父の温厚で親しみやすい語り口を耳にして、私はここ数日抱いていた不安な気持ちがなくなりほっとしました。

 養父は警察官だと聞いていたのですが、これほど穏やかでやさしい人柄だとは思いもよりませんでした。私の第一印象は、養父は養母に比べてはるかに年上でしたが、慈しみがあり、少しも怖そうなところはありませんでした。そのうえ、養父も私を気に入ってくれたようで、私によその家に泊まる必要はないので、帰ってくるように言いました。

 しばらくして、私は養父がしばしば養母と喧嘩をしているのに気が付きました。その多くは、養母が悪いんだといって私をかばってくれたことによるものでした。養父は誠実で情に厚い人だったので、私のことが気に入っただけでなく、私をいたわってもくれました。養父は他の人に対しても同様であったため、中国共産党が土地改革を行った際にも人に殴られたり、吊るし上げられたりということがありませんでした。ところが、養母のほうはこれとは全く逆で、皆から「ずるい婆さん」と言われました。

 お正月になり、とても賑やかになりました。大通りでは、ヤンガ(田植え唄踊り)が聞こえています。養母は一人で食事を済ますとさっさと外出し、私に養父の水や薬を飲ませ、下の始末などをするよう言い付けました。弟の趙全有もまた養父と日を見に行きました。王潔茹もお母さんとヤンガを見にいきました。南の間の趙おばさんは纏足で歩くのが不便だったので、家のオンドルの上で餃子を作っていました。

 我が家の北の壁は大きな街道筋に面しており、ドラや太鼓の賑やかな音が聞こえてきました。どうやら、ヤンガ隊が私たちの通りにやってきたようです。養父は私にヤンガを見に行くよう促してくれました。私も本当に見に行きたかったのですが、養母に叩かれるんじゃないかと心配で、それができないでいました。すると、養父は私の心を見透かしたようで、「行って来なさい。お母さんのことは心配いらないから」と言いました。

私は天にも昇る気持ちになり

 

私は天にも昇る気持ちになり、「ありがとうございます」と養父にお礼を言うと、駆け出しました。私が一人で大通りに出て見ると、ヤンガ隊の先頭には提灯を持った人がおり、皆綺麗に化粧をしていました。男の人も女の人もいて、しかも男の人も女の人の服を着ていました。右手に扇子を持ち、腰には色鮮やかな腰ひもとリボンを付けていました。

 一番後ろに小さな船が続き、本当に船に乗って水に浮かんでいるように上手に演じていました。さらには、お婆さんがロバに跨っているところを本物そっくりに演じ、そのあとをお爺さんがロバを追い立てるようにして、身をくねらせて楽しそうに踊っていました。

 私が初めてこの情景を見た時、新鮮な面白みを感じました。以前、私が父と家族みんなで船に乗って羅津市に寄ったときの好奇心と楽しさが随分昔のことのように思い出され、別の世界に入ったかのようでした。

 このヤンガ隊が通り過ぎると、今度は「高足踊り」のヤンガ隊がやって来ました。私は大変驚きました。人があんなにも細く高い棒の上で、よく落ちもせずに歩いたり跳ねたりといろいろな動作をして、しかも楽しそうに踊っているのです。本当に大したものです。彼らは人の群れよりも高かったので、私からもよく見えました。

 見物客の群れは、ヤンガ隊と一緒に前に進んで行きました。子供たちはお父さんの肩に乗ったり、肩車をしてもらったりして、サンザシのお菓子を頬張りながら楽しそうに見ていました。子供の手を引き、ヤンガの歌を口ずさんでいる大人もいました。

 大人と子供が楽しそうに過ごしている様子を見て、私はすぐに私の弟がその中にいないかと探しました。しかし、日も暮れて、人出も多かったので、弟とその養父を見つけることはできませんでした。大通りの人たちは、その大かたがヤンガ隊とともに行ってしまいました。一部の人がヤンガ隊の歌を口ずさみながら来た道を帰っていきました。

 私は養母が帰ってきているのではないかと心配になり、急いで家に戻りました。養父はすでに眠っていました。養母はまだ戻っておらず、私はほっとしました。

 ちょうどお正月の数日間は、養母は父親や兄家族に会いに実家のある林口県五林鎮に里帰りしました。そのため、家の中は、養父と私の二人だけでした。養父はすでに起き上がることができ、少しなら動くこともできました。養母がいないその数日間は、私は最もリラックスして最も楽しく、最も幸せな日々を過ごし、自分ひとりで進んで養父の世話をしました。

 やるべきことをやり終えると、養父は「外で遊んできなさい」と私を促しました。もし、私の養母があんなにも恐ろしい気性でなかったら、どんなに良かったことでしょうか。幼年時期の私は、往々にして自分が特殊な状況に置かれていたために、知らず知らずのうちに自分が非常に不幸な運命を背負っていると恨みを抱いていたのでした。

 (つづく)