三国志を解釈する(5)

【三国志を解釈する】(5)劉備は腐れ儒者ではなかったのか?

前章では、黄巾軍が反乱を起こし、張角軍が幽州(注1)の国境に攻め込んできたので、状況は危機的であったということを紹介しました。総督である劉焉は、全県に義勇兵を徴集する召集令状を発行し、その召集令状が涿県(注2)に届いたということです。そこで、劉備が正式に登場することになり、「桃園結義」の物語が始まりました。

劉備登場 徳志先行

劉備の登場について、原作で最初に記述されるのは、彼の品行、性格及び大いなる志です。
原文:「那人不甚好读书;性宽和,寡言语,喜怒不形于色;素有大志,专好结交天下豪杰」。

訳文:「この人は読書が好きではない。言葉が少なく、穏やかな性格で、喜怒哀楽を表に出さない人である。大きな志を持ち、世界の豪傑や英才と親交を結ぶことに専念している」。
ここで漢の景帝のひ孫という皇室の出身や宗族、名前や字(あざな)などを最初に書かなかったことを不思議に思ったことでしょう。

その理由の一つとしては、著者は登場人物の物語を通して義理人情を表現することを目的としているからです。登場人物、特に主人公を描写する場合、まず重要なのは「徳」です。「言葉が少なく、穏やかな性格で、喜怒哀楽を表に出さない」という一文で、劉備の仁義のある心や、理性的で堅実な人という基本的な性格が決まっています。また「済世安民」という大きな志を持っており、つまりそれは「国民の生活を安定させ、国を繁栄させる」ことです。この事は「桃園結義」の誓いにも具体的に示されています。

美徳と正しい志は、古代において君子になるための最も重要な資質です。国王であっても大臣であっても、二つの要素を備えなければなりません。支配者とその臣下は、心を一つにして、共に義理の元で行動を行い、国を修めなければなりません。著者が最初にこの二つの基本的な要素を示したのは、それが劉備が皇帝として成功するかどうかの鍵であるためです。したがって、作品全体における劉備をめぐる描写はこれを核心として、彼を慈悲深い、正義感のある王として描かれています。三国志演義では特に劉備の博愛の心に焦点が当てられます。

このように、後の話になりますが、陶謙が譲ろうとする徐州を辞したこと、劉表が支配した荊州を拒否したこと、新野を焼いた後に曹操の追撃から逃れた途中に、自分に従う人々を見捨てることなく死にかけたことなど、劉備の話が詳細に書かれています。特に徐州を呂布に渡したのちに、呂布に追われた状況の中で、劉備が人々に向かって、「得ることは必ずしも喜ぶべきことではなく、失うことは必ずしも悪いことではない」と、実際の心境を語っており、この事からも非常に心が広いことが分かります。これは、古代の人が神の定めた運命を信じながら、仁義の道を貫いていくことを示すものです。

読書が苦手なわけ

君子なら学者でなければならないのだから、なぜ「那人不甚好読書」というセリフから始まるのかと、疑問に思う人もいるでしょう。この答えは、諸葛亮が儒者との舌戦の章で、優れた儒者と腐れ儒者の違いを論じた中で、著者が非常に丁寧に教えてくれています。

漢の末期には、人の心が道徳から逸脱したため、多くの知識人は、読書の根本的な目的が、人間であることの意味を理解し、書の内容を日常生活や仕事の中で実践する、ということを忘れていました。漢の末期の知識人を見てみると、袁紹や袁術などのような四世三公の名門出身で、知識を豊富に持っていても、兄は無情な者で、弟は無礼な者で、心が狭く、人を信頼せずに、優しさを持たずに人を扱い、支配者と臣下との調和を求めず、名声と富を追い求める悪役になってしまいました。万冊の本を読んだとしても実践せず、民衆の心を失い、曹操に滅ぼされてしまったのだから、結局何の意味があるのでしょうか。そこで著者は、劉備があまり本を読まないが、生れながら君子の素質を持つ人間であるため、毎日本を読んでいるが賢人の教えから逸脱した行動をとる腐れ儒者よりもはるかに優れていることを、この一文に示しました。

実は、君子になるためには、読書は唯一の方法ではありません。孔子が教えたように、賢者に触れ合うこと、賢者を見習うことは、近道の一つでもあります。『論語』の「雪爾」の一節を読めば、孔子自身のこの見解が分かります。

孔子は弟子と対話をして、「弟子入則孝,出則悌,謹而信,泛愛衆,而親仁,行有余力,則以学文」と言っています。つまり、「若者は、家では親孝行をしなさい。外に出たら目上の人に仕え、言動を謹んで広く人々を愛し、人徳を持っている人と仲良くしなさい。そこで余力があれば読書を通して学問をすればよいであろう」ということです。孔子の話は、親孝行、友愛、忠誠、信義などを実践すること、賢者に触れ合い、徳のある人を見習うことに重点を置き、読書や学問することを二の次にしています。

弟子の子夏は孔子の話を聞いて、「賢賢易色 事父母 能竭其力 事君 能致其身 与朋友交,言而有信。虽曰未学,吾必谓之学矣」と自分の理解を伝えました。つまり、「賢者を尊び、正しい態度をとり、父母のために力を尽くし孝行し、君主に身をゆだねて忠義を志し、朋友と交わって言葉に信義があれば、いまだに道を学んでいないと言う人があったとしても、私はすでに学んだ人だとみなす」と言っています。

このように、『三国志』の作者は、孔子が言う学問の真の意味を再現しています。真の君子は読書の数量で判断するのではなく、その人の行動で判定するものです。後に、「玄德幼孤,事母至孝」という一文があり、「劉備は幼くして父を失い、母に孝行した」とのことです。つまり、劉備の行動は、君子の本質、賢者の教えに沿ったものだということです。

王室の出自と貧乏な境遇

劉備の容姿、出自、名前、そして貧しい境遇について、著者はこのように描いています。
原文:「生得身長七尺五寸,両耳垂肩,双手過膝,目能自願其耳,面如冠玉,唇若涂脂;中山靖王劉勝之后,漢景帝閣下玄孫;姓劉,名備,字玄德」「玄徳幼孤,事母至孝;家貧,販屨織席為業。家住本县楼桑村。」
訳文:「体長は約7尺5寸で、両耳が肩まで垂れ下がり、両手は膝の下まであり、耳は見ることができるほど大きく、顔は玉の冠のようで、唇は脂を塗ったような美貌である。中山靖王である劉勝の子孫で、漢の景帝の玄孫であり、姓は劉、名は備、字は玄徳である」「玄徳は幼くして父を失い、母に孝行していた。家は貧しく、麻製の靴の販売や筵織りで生計する。本県楼桑村に住んでいる」

皇帝になる宿命との予言

最後に、著者は、劉備の未来に関する予言を書きました。
原文:「其家之东南,有一大桑树,高五丈余,遥望之,童童如车盖。相者云:『此家必出贵人』」

「玄德幼时,与乡中小儿戏于树下,曰:『我为天子,当乘此车盖。』叔父刘元起奇其言,曰:『此儿非常人也!』」「年十五岁,母使游学,尝师事郑玄、卢植;与公孙瓒等为友。」

訳文: 劉備の家の南東には、高さ5丈以上の大きな桑の木があり、(非常に茂っているため)遠くから見ると車を丸ごと覆うことができるように見える。占い師は、『この家から高貴な人が出現するだろう』と預言した。

玄徳が子供の頃、村の小さな子供たちと木の下で遊びながら、「私が天子になったら、この車の上に乗ろう」と言っていた。叔父の劉元起は彼の言葉を不思議に思い、「この子はとても特別な人だ」と言った「15歳で母親に勉強させられ、鄭玄や盧植に師事したことがあり、公孫瓒と親交を深めた。

これらの記述は、劉備の皇族の出自や、孤児となった貧しい境遇だったこと、同時に、彼が勉強や学習を怠らなかったことも示しています。孔子が言ったように、15歳になって、家で親孝行をした後、当時の大学者である鄭玄や盧植に師事し、読書や学習を始め、非常に博識であったことは間違いないでしょう。

そして、これからは張飛と関羽の登場となります。次回でご紹介します。

注1: 幽州、上古の中国の九州の一つである。『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。周建国の功臣である召公奭はこの地に封じられたため、「燕」とも呼ばれている。東漢時代の幽州の管轄地域は、現在の北京市、天津市、河北省の北部、遼寧省の南部、朝鮮半島の北西部に相当する。当時幽州のもとに11の郡国があり、その下に90の県があった。州の最高長官は刺史であり、郡国の長官は太守という。

注2: 涿県、現在の涿州市を指し、河北省の中央部に位置する。首都北京に隣接しているため、北京の「南門」と呼ばれている。

(つづく)
 

劉如
文化面担当の編集者。大学で中国語文学を専攻し、『四書五経』や『資治通鑑』等の歴史書を熟読する。現代社会において失われつつある古典文学の教養を復興させ、道徳に基づく教育の大切さを広く伝えることをライフワークとしている。