THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(20)「再び逃避行」

2008年03月10日 09時48分

 団長はソ連軍と談判に出かけました。そのとき、カメラや時計といった貴重品も持参したそうです。団長は戻ってくると皆に、談判の結果、ソ連軍は開拓団の女性や子供を殺さない、そして皆を馬蓮河の収容所に収容することになったというのです。

 そこで団長は、私たちを連れて馬蓮河の難民収容所へ出発しました。これまでの逃避行で、皆は疲れ果てていて、全員が病人のように元気がありませんでしたが、野外で野宿するよりましだとわかって、団長の指示に従って歩き始めました。

 私たちは、途中「東京」の町を通りぬけることになりました。町に入る前、団長は高い塀に上って見渡した後、皆に、まずはちょっと休むよう、そして靴紐をしっかりしめ、リュックや水筒などは各自ちゃんと背負うよう、母親たちは自分の子供の手を離さないようにし、町を通るときは列を乱さずきれいに並んですばやく通過するようにし、落後してはならないと注意し、町を出たら休憩を取ると言いました。

 団長は体格が非常にたくましく、高い塀に立つとより大きく威風堂々としているように感じました。皆は静かに団長の話を聞いてから、各自で身の回りの物を整理し、自主的にきれいな列を作って並びました。

 私の家は前から3列目で、私と母が両側で、中に2人の弟を挟み、ちょうど4人で一列を作りました。母は弟たちに、町に入ったら、ちゃんと最後まですばやく歩くように言い聞かせ、弟たちははっきりと「はい」と返事しました。

 病弱な者や年配の者と女性・子供からなる私たちの隊伍が町に入りました。団長は大隊の横について、絶えず小さな声で「頑張れ」「遅れるな」と励ましてくれました。路の両側には銃を持ったソ連の軍人と数人の中国人がいました。どの家のドアと窓も閉まっており、入り口には出入りする人影もなく、勿論、見物している人もいません。

 普段、好奇心旺盛であれこれと観察するのが好きな私も、周りの人の様子を見る余裕もありませんでした。これほど緊張した雰囲気は私にとっては初めてで、無意識のうちに上の弟の手をしっかり引いて、すばやく前進しました。最前列の4人の大人の人たちの歩くスピードがとても速かったので、私たちは懸命に着いていくほかしかたありませんでした。当時はあまりに緊張していたせいか、この町を通過するのは、沙蘭の西検問所から東検問所までより遥かに遠く感じました。

 かなりの時間がかかって、ようやく町の東門に辿り着き、最後の列が通過すると、全員ホッとしました。私たちはそのまましばらく歩き、底が透き通って見える小川のそばで休息を取りました。

 きれいな川の水で喉の渇きを癒すため、皆は川に入りました。それから、誰かが指示を出してから、顔を洗うことが許されました。この日はよく晴れており、顔を洗った後、皆は少し元気を取り戻しました。後数キロで馬蓮河に着きます。

 ここからはもう、灌木の林を潜り抜けなくてもよく、車が通る平坦な道を歩くことができます。疲れと暑さはありましたが、ぬかるんだ深い森林の中を歩くよりずっと気持ちがよかったのです。休息を取るにしても、道端にある馬蓮の根っこの上に座っても、柔らかくて棘もありません。暗闇の中を歩いても棘に刺される心配もありません。

 私たちはここ数日、林の中を潜り抜け野宿をしたため、どの服も出発時のように整ってはおらず、中には、靴すら脱げてなくなり、裸足で血と泥にまみれた子供さえいました。幸い、母が私たちに用意してくれたのは、紐付きの柔らかいゴム靴だったので、ぬかるみを歩いても脱げず、少しも破れることもありませんでした。汚れて元が何色だったかがわからなくなっていただけです。

 皆は顔を洗うと口々に、「気持ちいい。まるで風呂に入ったみたいで、全身リラックスした感じ」と言いました。「収容所に行けば、森の中を歩くよりずっとましだわ。狼や虎などの獣の心配もいらないし」と言う人もいました。まるで、数日前、天皇陛下が無条件降伏したという知らせを聞いたときのあの絶望的な悲しみに包まれた気持ちを、今はすっかり忘れてしまい、救われたかのように、希望に満ち溢れていました。そのときは、この先さらに恐ろしく、誰も想像だにしなかった災難が私たちを待ち受けているなどということは思いもしませんでした。

(つづく)

 

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