≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(21)「収容所での生活」

馬蓮河収容所

 その日の夜、馬蓮河屯に着きました。そこはとても大きな村で、西には牡丹江から図們(トゥーメン)に行く直通汽車が走っており、南には大きな河・馬蓮河があり、鉄道の東側、村落の外にはまた小さな川があり、村の人々は皆その川で洗濯し、子供たちはそこで水遊びをして遊んでいました。

 私たちはそこに着くと、村の小学校に住むことになりました。そこも「義勇軍」の兵舎のようなところで、寝るには床に麦わらを敷かなければなりませんでした。ただ、麦わらは準備されていなかったので、自分たちで空き地へ行って盛ってこなければなりませんでした。私の家は、入り口の反対側の北側の壁の真ん中あたりでした。戸板はすでに壊れてちゃんと閉めることができないため、始終開けっ放しにするほかありませんでした。ですから、夜になると、かなり寒さを感じました。ガラスがなかったり、ドアがなかったりと、条件はかなり悪かったのですが、部屋の中に住むことができた分、雨風の際には、森林の露天よりはましでした。

 私たちがここに到着した翌日と翌々日に、別の開拓団から来た人たちが次々にここに集まってきました。人が随分多くなり、住むところもなく、家畜小屋や豚飼育場内に割り当てられられた人もいましたが、それでもどうにか雨風はしのげました。

 私たちが泊まっているところでは、元々各家庭の寝床は随分狭かったのですが、さらに何人か入ってきたので、一人分がますます狭くなりました。やっと身体を横たえられるだけの小さなスペースで、寝返りを打つのもできないほどでしたから、もし途中で起き上がって外へ出たりトイレに行こうものなら、帰ってきたときにはもう寝る場所はなくなっていました。

 ある日の夜、外は月が煌々と輝き、部屋の中を明るく照らしていました。私は蒸し暑くて、寝つけませんでした。そのうち、トイレに行きたいと思い、そっと起き上がって外に出ました。トイレは校舎の北西の角にあり、随分離れていました。幸いにも月が明るく、周りがよく見渡せたので、怖くはありませんでした。しかし、トイレから出て来て戻ろうとしたとき、校庭の西側から一匹のオオカミがやってくるのが見えました。月光の下で、尻尾を垂らしており、間違いなくオオカミでした。私はびっくりしてそこに立ちすくんでしまいました。

 森林で避難しているとき、ある人が、「オオカミの尻尾は長くて垂れており、その点が犬と違う」と教えてくれたことがあります。驚きのあまり、足がすくみ、どうしていいやら分りませんでした。しかし、その大きいオオカミは私が見えなかったようで、西の墻を飛び越えて、まっすぐ南のほうへ走り去っていきました。私はほっと一息つくと、急いで部屋へ帰りました。しかし、部屋に戻ってみると、すし詰め状態で、入り込む余地などありませんでした。母は目を覚ますと、自分のところに私を寝かせ、自身は壁にもたれかかりました。それ以来、私は決して夜中に外に出ないようにしました。戻ってきたら、自分の場所がなくなっているからです。

 馬蓮河屯は、「東京」の町の駅から近く、周りには多数の村があって、多くの中国人が住んでおり、しょっちゅう卵、揚げ菓子、焼き餅などの食べ物を売りにくる人もいました。毎回のように母は買っては、全部私たちに与えて、自分は一口も食べなかったので、私は、自分の分を半分母にあげるのでした。当時、こういった品は非常に高価だったのでしょう。子供たちが泣いてほしがっても、母親たちは買ってやりませんでした。おそらく買うお金がなかったのです。そんなとき、母はいつも私をお使いに出して、彼らに買ってやりました。

 

 母親はまたよく、私たちにニンニクを買って食べさせてくれました。ニンニクを食べれば病気をしないというのです。私は辛いものが好きではありませんが、ニンニクは今でも好きです。当時母は、私たちが病気に罹らないようにと、高いお金を出して、ニンニクを食べさせてくれたのでしょう。

 私の家は、本部開拓団の中ではおそらく裕福な方だったのでしょう。私が着たり、使ったりしていた物は全て、よその子よりも「洋風」で「流行」のものでした。ここでの生活が始まり、私と弟たちの服や靴は、母が全部きれいに洗ってくれました。そこでは、よその家と一緒に寝起きし、生活するので、それぞれの家の状況がよく分りました。私はそのとき、自分が温かい家庭に恵まれ、善良で慈愛に満ちた母と物分かりのいい可愛い弟たちに囲まれているのを誇りに思いました。

 私の母はとても美しく、開拓団でも有名な美人でした。後に、私が日本に帰国してから、開拓団の人たちに会い、当時のことを話すたびに、皆は「あなたのお母さんはきれいな上、善良でやさしく強い人だった」と言うのでした。

 母は確かに、人に親切で、善良で、誰に対しても穏やかに落ち着いて話し、人を傷つけることがありませんでした。たとえ自分が損したり騙されて辛い思いをしても、決して他人を傷付けることはなかったのです。
 

 (続く)