THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(47)「物乞いの辛い日々」

2008年09月06日 00時04分

 半世紀近く過ぎてから、私は1996年の夏に日本人数人を同伴して、蘭家村に行きました。それは、終生忘れることのできないあの優しいおばさんを探し出し、当時彼女が私に、日本人の子か、朝鮮人の子かと尋ねた謎を明らかにしたかったのです。私は、心からずっと彼女に感謝していました。

 私たちの乗ったジープがまだ村に入らないうちに、はるか遠くから道の近くに一軒の家を見つけました。私は車を降りると、真っ直ぐにその家に歩いて行きました。家の主人は替わっており、あるお爺さんが私に教えてくれました。「あのおばさんは数年前に亡くなったよ。彼ら夫婦には子供がいなかったので、日本人の子供を養子にでもと考えてはいたんだが、結局何も縁がなかった。だから後を見る人はいない」のだと。

 私はこれを聞いて、辛くなりました。もし、私があの時急に逃げ出さなかったら、この事をもっと早く分かっていただろう。そうすれば、彼女の養女になれなかったにしても、少なくとも身内のようにして、あの温情に応えることができたのに。私はとても後悔しました。

 しかしあの時は、こうなる運命だったのかもしれません。私はかつてこう思いました。もし私が養母と縁がなかったら、もしあのおばさんのところに引き取られていたら、全く別の人生を送っていただろうと。私とあのおばさんとは、わずか一面識の縁でしたが、私の魂を支えてくれる希望の明かりでした。

 土地改革後の春、私と養母は各地を回って「物乞い」をしたので、私の魂は屈折してしまい、ある意味麻痺して屈強になっていきました。以前のように戦々恐々としてただ命令に従うというものではなくなったものの、また別の極端に走りだしました。養母が折檻しても、逃げないし泣かないのですが、不平不満や怒りが充満しました。そしてついには、養母に殴り殺されてもいい、死んでしまえば、毎日のように折檻されなくて済むのだからと思うようになりました。

 長期の苦難の中で関門を抜けるうち、善の心を保ちありのままでいたいのに、一方では卑屈になったり、不平、憤りがあったりして、非常に矛盾し、とても辛い思いをしました。

 しかし、もっと大きな災難が次から次へと降りかかってきました。私が学校に上がろうとすることによって、養母はまた恐るべきひどい仕打ちをしたのです。

(つづく)

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