【党文化の解体】第8章(16)

【大紀元日本11月27日】

5.混同された党と政府、国、民族の概念

2)党と政府、国、民族との概念を混同した中国人

米国の大統領を批判した人がいたとしても、その人が米国を愛していないと攻撃する人はいない。米国の共和党を批判する人がいたとしても、その人が米国民を愛していないと攻撃する人はない。政権与党に反対しても、単に米国の政府に反対することには等しくなく、ホワイトハウスの前にせよ海外にせよ、米国政府に抗議したアメリカ人が米国を愛していないとか、もしくは米国に恥をかかせたとか思われたりしない。どれかの政党に反対しても、「国家転覆を扇動する罪」に問われることもない。

しかし、誰かが中国の暗黒な現実を批判して共産党を非難すると、多くの中国人から「あなたはそれでも中国人なのか」と罵声を浴びる。海外で共産党の高官に対して抗議をすると、同じく「中国人に恥をかかせた」と華人の多くに罵倒される。外国の政治家が中国共産党を批判する時、共産党は立ち上がって反論して、民衆も共産党に追随する。民衆の怒りは本心から出たものである。誰かが中国共産党の悪行を暴露すると、この人に恥をかけられた、この人が暴露した中国共産党の醜聞のため中国人は外国人に軽蔑される、と思う中国人がいる。しかし、外国人は決してこう思わない。中国人の独断政権の醜悪を暴き出す勇気と良心は、かえって外国人に感心される。それでは、どうして中国人自身は「羞恥妄想症」にかかるのだろうか。彼らは共産党と政府、党と国、党と民族の概念を混同したため、自分を中国共産党の一部だと思っているからだ。多くの中国人は中国を愛することを「中国共産党を愛する」ことに等しいと思って、中国共産党を批判することを中国を批判すること、反共産党を反中活動、中国人を裏切る行為と等しいと思っている。

中国共産党の指導者が外国を訪問する時、彼を待ち受けて抗議する人もいれば、共産党が集めてきた歓迎する人もいる。しかし歓迎する人たちはほとんど指導者に会えることがない。それではどうして歓迎に来るのだろうか。 歓迎するのは本当の目的でない、もともと指導者に会えないことを覚悟している、来た目的は抗議陣に対抗するためだった、と歓迎陣が説明した。

二〇〇六年、胡錦涛・中国国家主席が米国ホワイトハウスを訪問した際、西側メディアが歓迎隊列の責任者に質問した、「向こう側の抗議隊列の二千人を見て、この状況をどう見ていますか」。するとその人は、「中国の指導者の来訪はとても喜ぶべきことなので、この時に指導者に抗議をするのは不適切だ」と答えた。この回答はとてもおかしい。今が不適切だとすると、どんな時に抗議すれば適切なのか。中国で指導者に会う機会がまったくなくて、陳情に行くなら「社会秩序を乱す」理由で投獄される。指導者は民主国に行く時にだけ陳情と抗議が許されるが、また「喜ぶ時」に抗議するのは「不適切」と言われ、それでは抗議する機会がどこにもないのではないだろうか。 

歓迎陣は愛国心のために抗議陣と対抗すると言うが、指導者に迫害を受ける人民の本音を聞かせないと共産党はどうやって間違いを直せるのだろうか。間違いを直さずに民衆を引き続き迫害すると、国にとって災難ではないだろうか。 このようにするといったい国を愛することになるのか、それとも国を害することになるのか。はっきり言うと、歓迎陣は中国の威厳を守っているとおもうが、実は共産党の面子を守っているだけである。

正常な社会では、国民が政府を支持するには特別な表現はなく、ただ選挙結果だけがすべてだ。それとは逆に、政府に対する不満を表現する。政府が良いことをするのは無論のこと、それは権限の範囲内で、できなかったら再選されることがあるだろうか。逆にきちんと責任を果たせない政府は、政権の座を降りて、有能なものと交替されなくてはならない。そのためフランスの大統領が外国を訪問する時、在外の大使館が歓迎陣を集めてそれを歓迎することは決してありえない。大統領も国民に選挙された指導者としての自信があり、このような「歓迎」を使って自分の権力の合法性を証明する必要がない。共産党がこのような「歓迎」をするのは、まさしく中国共産党政権の合法性を偽造するためだと、共産党自身も歓迎陣も気づかないだろう。

党と国を区別しない考え方は、中国共産党によって故意に作り出されたものだ。数十年の基礎しか持たないヨーロッパからの舶来品だと知っているため、中国共産党は有力な後ろ盾に頼る必要がある。中国人の愛国心を利用して、共産党は数十年来ずっと愛国者、中華民族の利益の代表と自称して国民を騙している。またいつも「党を愛して国を愛する」、「反共産党、反人民」、「反共産党は反政府」のように「党」を「国家」、「人民」、「政府」とつなげて使用して、党と国の間の概念を混乱させた。

3)中国には等しくない中国共産党

「中国共産党は中国に等しくない」という常識をまず確立しよう。政党と国家、民族と同じ概念ではない。中国は一つの国としてすでに数千年も存在してきたが、中国共産党が八十年余りの歴史しかなくて、中国を統治して五十数年しか経っていない。

「中国」という言葉は古来より存在して、最初は「天下」の中心である中原地帯を指した。近代、特に一九一二年中華民国が創立後、「中国」の言葉ははじめて民族、国家の意味合いを含む法律的、政治的な概念になった。一般的に歴史学の角度からいうと、「中国」とは三皇五帝の伝説時代から始まった、夏、商、周、秦、漢、魏、晋、南北朝、隋、唐、五代十国、宋、元、明清、中華民国、およびいわゆる中華人民共和国など一連の時代と政権を歩んできた歴史の全体をいう。地理学の角度からいうと、ユーラシア大陸の東と太平洋の西岸に位置する、地球上一番多い人口(およそ十三億)と三番目の国土面積を有する国をいう。政治あるいは行政の角度からいうと、中国大陸、香港、マカオの「中華人民共和国」と台湾地区の中華民国からなる国のことである。

「中国」に言及する時、あなたは頭に何を思い浮かべるだろうか。 中国の地図、そこに生息する自分の親戚や友人、行き来する街の人、長城、黄河、代表的な建物、文化財の古跡、あるいは博大且つ奥深い中華文化などなどが頭に浮び、決してどちらかの政党が浮び上がるはずがないだろう。それは人間のごく自然な反応である。国家の内包に国土、その国土に生息する各民族の人々、経済、科学技術、文化、飲食、教育、祝日、社会、宗教、政治など多くの概念が含まれる。「中国」というのは歴史の、地理学の、文化の、血縁の中国であり、中国共産党は中国に等しいわけではない。最も簡単な例を挙げよう。製品に付けた「中国製」のラベルを見て、誰もがそれを「中国共産党製造」と思わないだろう。

しかし現実の中で、中国人は確かに中国共産党を中国に等しいもの、国を愛することを党を愛することに等しいものとしている。中国共産党について談ずるとき、多くの人は無意識に中国の何ものかについて談じていると思い、「共産党がなかったら中国はありえるのか」、「共産党がなくなったらどうすればいいのか」といった意識が大半を占めている。

中国人がほとんど共産主義を信じておらず、汚職腐敗が横行する今日、「我が党は一貫して正しい」、「社会主義が良い」という政治的標語では、中国人は党を信用しなくなっている。共産党の統治を保持し、国民の嫌疑をさけて党への支持を集めるため、中国共産党はもう一度党と国家の概念を混同させ、狭い愛国主義と極端な民族主義を利用して、中国人の愛国心を党を愛する方向へと誘導した。党を愛する行為と思想は、共産党の宣伝によって、国を愛する行為と思想へと変貌した。

中国の経済発展の成果をもって国民に「党の路線」を歩ませて、「党の路線」をもって愛国主義の教育を行うために、党中央は『愛国主義教育の実施綱要』を策定した。まず「党のやったすべての事は中国のためだ」と自らを称賛し、そして概念をすり替えて中国の業績はすべて共産党がもたらしたものだといって、最後に愛国はつまり党の路線を歩むことのように定義して概念を混同させ、共産党を愛して擁護することを愛国であると国民に思わせた。

(続く)