【古典の味わい】貞観政要 7

貞観2年のこと。帝都長安もふくむ函谷関(かんこくかん)から西の地方に旱(ひでり)が続き、大飢饉となった。太宗は、左右の侍臣に向かって、こう申された。

「水旱(すいかん)が整わないため、この世に洪水旱魃(かんばつ)が起きるのは、すべて人君(じんくん)が徳を失ったからである。つまり、朕(ちん)が徳を修められないために、このような天災が起きるのであるから、天はまさに、朕ひとりを叱責してほしい。人民に何の罪があって、このようなひどい困窮に遭わねばならないのか」

「人民のなかには、生活苦のあまり息子や娘を売るものがいると聞く。朕はこれを、まことに気の毒だと思う」

太宗は、すぐに御史大夫(ぎょしたいふ)の杜淹(とえん)を派遣して、被害のひどい地方の状況を調査させた。

さらに宮中の金庫からお金や財宝を出して、売られた子どもを買い戻し、父母のもとへ返してやった。

御史大夫とは、官吏の不正を調べて取り締まる検察庁のような役職ですが、正義感のかたまりのような人物でないと(それ自体が汚職に染まって)とても務まりません。

太宗が抜擢した杜淹は、よくその信任に応え、やがて昇進して宰相になります。

それにしても太宗という人物の、この偉大さはどうでしょう。

「天災で人民が苦しむのは、皇帝である私の徳が足らないからだ」。

今の中国の為政者に分かるはずもないのですが、この一途な内省こそが、中国史上最高の名君とうたわれた太宗の誠実さなのです。太宗は、決して自身を完成されたものとは見なさず、常に反省し、過ちを改め、国家と人民のために理想的な皇帝になろうと努める「努力の人」でした。

太宗の言動はもれなく『貞観政要』にまとめられて、後世へ伝えるべき歴史の鑑となりました。

ただ残念ながら、それに続く中国歴代王朝の皇帝は(いくつかの例外を除いて)凡庸であったり、とんでもない暴君であったりして、なかなか唐太宗のような大人物は出現しませんでした。挙げるならば、清朝中興の康熙帝(こうきてい)が文武に秀でた名君だったでしょうか。

中国皇帝は、天帝の意志の代行者であり、天によって与えられた使命です。その一点から、太宗の謙虚さと責任感、自己内省の誠実さが生まれてくるのです。

(聡)