中華五千年の歴史には及ぶまいが、日本も初代・神武大帝以来、2千数百年の歴史をもつ。

短い歴史ではない。ただ、日本に漢字がもたらされたのが5世紀から6世紀とされているので、それ以前のおよそ千年間、日本人は文字表記をもたない伝承のなかで生きてきた。

文字を持たないころの日本人が不幸だったわけではない。ただ、民族が発展的な歴史を選択するならば、ものを学び、思索を深め、真理を探究する知的活動をもたなければならない。食物を自然界から採取しているだけの生活も人間らしくて良いが、人口が増えれば、欲望のままに不善をなすものも現れてくる。そこで、社会の秩序を保つための教養が必要とされるからである。

あくまでも仮の話である。仮に今の中国人から、日本人である私たちに「漢字は中国人がくれてやったのだぞ」などと恩着せがましく言われたら、日本人としても受け入れ難い。「今の中国大陸の中国人は、本来の漢字を勝手に分解してしまったではないか。本義をなくした簡体字など漢字ではない」と、反論の一つもしたくなる。

両者の仲裁のため、結論を先に言う。中国の漢字は、先史時代から残された神伝文化の一つである。したがって、人間が勝手に操作してよいものではない。また、漢字が日本をはじめ周辺諸国へ伝えられたのは、全て神の采配による。正統な文化と、その伝播に関しては、何人たりとも努めて謙虚であるべきだろう。

漢字文化の大いなる恩恵

漢字が天上の神から人類に授けられたものであるとすれば、中国人もまたその恩恵の受け手であって、自慢できるほどの発明者ではなかろう。

それにしても、つくづく思うのだが、日本が、漢字文化圏の一員に属していることは、やはり宇宙のように大きな恩恵を受けているに等しい。

一文字で音と意味の両方を表現することができ、毛筆という、典雅で表現力の豊かな筆記具に最適である漢字は、世界でも類例をみない、極めて機能性の高い文字だ。

例えば、平仮名だけで書かれた小説を読んで面白いか、カタカナだけが並んでいる新聞記事が読めるかどうか、ちょっと想像してみるとよい。私たちが享受している漢字の恩恵は、日常生活だけを見ても、これほど明白なのである。

ただ漢字は、習得するのにある程度の時間がかかるため、普及には公教育が整った社会であることが必要条件となる。しかし、学校における漢字教育をゆるめてはならない。習得するべき漢字の数を減らして英語などの他教科を教えることは、国家の基盤をゆるがすという意味において、大いに危惧されるからである。

足利義満が夢見たもの

遣隋使、遣唐使の頃ばかりではない。日本が、その歴史全般において最も深く関わってきた国は、中国をおいて他にはないからだ。

遣唐使が廃止され、唐が滅んだ後の平安末期から鎌倉時代にかけては、宋を相手とする日宋貿易が盛んに行われた。これは国家が派遣する使節団ではなく、民間の交易であるが、こうして商売に徹したほうが流通による利点は多かった。

日宋貿易で財力を蓄えたのが、瀬戸内海の海上権を掌握していた平清盛である。平家一門が壇ノ浦の海中に没するまで、その栄華を支えたのは、この経済力の後ろ盾であった。 

続く室町期になると、宋に替わって明(ミン)がその相手となる。ここでも足利将軍家は日明貿易を盛んに行った。

なかでも京都の北山に鹿苑寺(金閣)をはじめとするきらびやかな北山文化を築き上げた第3代将軍・足利義満(1358~1408)が夢見た明への思い入れは、尋常ではなかった。

義満は、明との正式な通交を熱望していた。しかし、民間名義の通商はともかく、中国の皇帝をいただく明側からみた通交相手は、あくまでも日本の国家元首である帝でなければならない。幕府の将軍であり太政大臣である義満は「帝の臣下」であるため、その願いは認められなかった。

そこで義満は1394年、太政大臣を辞して出家する。帝の臣下ではない自由な立場になった義満は、改めて明に使者を派遣。明の第2代皇帝・建文帝は、義満を日本国王と認めて冊封(さくほう)した。日本国王が明皇帝に朝貢するかたちの勘合貿易は、こうして始まったのである。

つまりは朝貢貿易であるから、日本国王が明皇帝の臣下となったことになる。このことについて旧幕臣・勝海舟は、その語録である『氷川清話』のなかで、面白い評価をしている。以下、原文のまま引用する。

「足利義満が、明の皇帝から日本国王に封ぜられたのを、歴史家は口を極めて攻撃するようだが、おれはなにも義満を弁護する気はないけれど、彼が虚名の封冊を受けたのは、これによって、実際の利益をとろうという考えだったことを忘れてはいけないよ。彼が明に頭を下げて、どしどし永楽銭の恵与を請うたところをみると、彼もなかなか食えない男さ」

頭を下げて実利をとった義満を「なかなか食えない男」と勝海舟は言った。江戸っ子・勝の口ぶりから想像するに、これはかなり高い評価と言える。

平清盛もそうであったが、中国から輸入した宋銭・明銭を大量にもつことは、国家経済を掌握することを意味したからだ。

中国 明様式の名刹

もう20年ほど前のことだが、京都を旅行した際に、宇治の萬福寺を訪れる機会があった。

黄檗山(おうばくさん)萬福寺。創建は寛文元年(1661)という。

実に不思議な空間だったと記憶する。明僧・隠元(いんげん、1592~1673)を開山とするこの禅寺は、いわゆる日本式の寺院と全く異なる、中国の明の様式をそのまま京都にもってきたような、まさに異国の寺だったのだ。寺の建物の色は、深く濃い赤色であった。

もちろん禅宗は、曹洞宗や臨済宗などが、鎌倉期から日本に伝わっていた。この黄檗宗が隠元禅師によって伝えられたのは、江戸時代の初期である。

隠元が来日したのは承応3年(1654)で、このとき63歳。上陸した長崎に1年ほど留まり、その後、宇治へ赴く。長崎には、崇福寺・興福寺・聖福寺などの黄檗宗の禅寺が今もあるが、いずれも長崎滞在中の隠元、または隠元の弟子にゆかりの僧が開いたもので、いずれも日本の寺とはちがう異国情緒がある。

さて当初、隠元の渡日は3年間の約束であった。本国からの帰国要請も重ねて届く。隠元も明へ帰るつもりだったが、日本側の引きとめ工作が功を奏したため、そのまま日本に留まり、82歳で宇治の地に入寂することになる。

まさに唐僧・鑑真和上と同じであった。隠元禅師も晩年に来日してそのまま帰らず、多くの若い日本人僧を育て、最後は日本の土に帰した。

中国僧を開山の師とする萬福寺では、今日でも中国風の発音をつかって日々の修行が行われている。

本稿も、そろそろ終わろうとしている。

文化とは、端的に言えば、植物の種のようなものであろう。それが日本の土に落ちれば、日本人の目をなごませ、その心と行動を正すような美しい花が咲く。他の国の地面に撒かれても、良い種は、同じはたらきをする。

中国伝統文化が咲かせる花は、とりわけ美しい。

それを目にした人は心が清らかになり、必ず善に導かれるからだ。

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。