気分を変えて雨を見に行く

人生は味気ない時があり、限りないうららかな春の日を経験した後は、気分を変えて風に耳を傾け、を見る。

子供のころから賑やかで乾燥した大都市で育った私にとって、雨はいつも刺激的で、たまらない魅力がある。雨が打つリズムに耳を傾け、雨が土地を潤すときの新鮮な匂いを吸い込む。手放せない争い事をどんどん切り捨てていくと、雨を聞いたり、見たり、鑑賞したりする心の状態が整ってくるようだ。

雨は一種の賜物である。乾いた砂漠に雨はなく、見渡す限りの黄砂の中にも雨はない。

雨は一種の救いであり、この世の終わりの火事に雨が必要であるように、空を覆うような山火事には雨が必要である。

雨は一種の懲罰であり、絶え間ない雨は洪水をもたらし、自然破壊への警告かもしれない。

雨は一種の怒りであり、豪雨が地球を襲い、切羽詰まった人類はノアの方舟が必要だった。それは当時、道徳がだめになった人々の運命に対する究極の審判だった。

雨は自然の造化であり、それは美しい西湖と煌びやかな日月潭を作り出すことができる。家の裏庭にも、緑の澄んだ小さな湖があり、金色の池に色とりどりの雲が映えて煌びやかだ。そのとき人間は、自然が変幻極まりなく予測不可能な方法で、惜しみなく水を与えてくれる魔法に感謝する。

雨は天地使者である。ハリケーンの雨や風、洪水が人類を席巻する時、助けを求めた人々は、神の救いを祈ろうと考えただろうか。

雨は希望をもたらす。心が天地への感謝の気持ちで満たされ、神を畏れ敬う謙虚さでいっぱいの時、雨上がりの虹が壮観で魅力的ではないと誰が言えるだろうか。

(翻訳・溝部 東)