西周王朝の初期、周公旦(しゅうこうたん)は儀礼と音楽を作り、儀礼の中心思想を「尊尊、親親」とすることを提唱しました。彼は、人は天を敬い、臣民は王を敬い、子孫は父親と祖先を敬うべきであると考えて、すべての国民は、自分の友人や親戚を親切に扱うべきであると信じていました。古代の儀礼形式の一部として、親孝行は次第に中国人の最も重要な伝統的価値観の一つとなりました。親孝行が盛んな時代には、年寄りや体の弱い人が支えられずに一人で放置されることはなく、若者は飲水思源(物事の基本を忘れずに大切にするべき)を考えて、いつも感謝の気持をもつことになりました。家庭が円満であれば、社会も繁栄した状態を示していました。そのため、古代の君主は親孝行を奨励し、身をもって範を示したことが多かったです。役人を任命する際にも、親孝行に優れた人を選んでいました。

古代人にとっては、親孝行は多くの方面で具体化されていました。たとえば、自分の体を大切にすることは親孝行の表れです。なぜなら、身体は親から授けられているからです。たとえば、両親が亡くなった後、3年間は肉や魚を食べることを控え、錦織の服を着ることを控え、豪華な家に住むことを控えて両親を弔い続けることは、子供が生まれてから両親が、昼夜を問わず赤ちゃんの世話をして、3年間も安心して暮らすことができなかったことへの恩返しなのです。また、「父母在,不遠遊」(父母が側に居る間は遠くに旅立たずに、近くで面倒を見る)、「事死如事生」(生死を超越し、天命に安んじて心を労しない)などの格言もあります。 清王朝に普及した教科古典『弟子規』(でしき)には、「親愛我,孝何難。親憎我,孝方賢」という名言があり、両親から身体を授けられる恩徳が一番大きいため、たとえ親にひどい仕打ちをされても、子供は親を恨まないと、生徒たちに親孝行をするように説いていました。

古代においては、十三経の一つである『孝経』は、儒教の生徒にとって必読の古典でした。 また、『孝経』(こうきょう)のほかに、女性が書いた『女孝経』もあり、女性にとって孝行の徳行の重要性も書かれています。中国における木蘭(もくらん)の物語は、南北朝時代から伝わる民謡に記録されていました。元々は閨中(けいちゅう)の少女であった木蘭(ムーラン)が、動乱の時代に徴兵された老病の父を憐れんで、男装して父の代わりに従軍し、戦場に駆けつけました。2009年、神韻芸術団(シェンユンげいじゅつだん)は、この心に響く物語を純粋で美しい中国古典舞踊の芸術形式で舞台に再現し、舞踊劇の『木蘭従軍』は世界中の観客に高く評価されました。

(翻訳編集・啓凡)