【漫画往来】巌窟翁の自画像~藤原カムイ~

大正12年9月1日午前11時58分44秒に、関東大震災が発生した。大正時代はこれを境に、昭和に入るひと時の残り香を放って終焉する。大正時代にはお伽歌劇というオペレッタが隆盛した。唱歌と語りの台詞とがミックスした童話劇がもて囃された。浅草オペラブームが子どもの世界にも波及して、お茶目は子どもの世界を魅了する大正モダンなキーワードとなった。

 『茶目の一日』は大正8年、(株)日本蓄音機商会(ニッポノホン、日本コロンビアの前身)からレコードが発売され、初お目見えした。昭和4年、童謡少女歌手・平井英子が甲高いおしゃまな声で歌って、「お茶目な子」は国民的人気を博した。

 台詞は高井ルビー(お母さん役)、二村定一(小学校の先生役)が付き添って、これ以外にはない絶妙のトリニティーだった。関東大震災を乗り越えた茶目子の明朗快活な乙女の歌声が、まばゆくオーラを放ち、昭和の門出を鼓舞してお茶目は時代を堂々と闊歩した。茶目子は大正と昭和、そしてなによりも関東大震災を跨いで成長を遂げた。

 関東大震災後の浅草の朝は早い。子供達の朝はラジオ体操で始まる。爆裂都市に生きる主人公「茶目子」は13才になっていた。焼け跡の太陽・・・彼女は人々にそう呼ばれた。「ある時は帝劇の芸術座オペラ子役、ある時は東京復興運動の中核として!そしてまたある時はビリヤード屋の玉つき娘」(漫画『爆裂都市茶目子』)として、愉快な悪漢・ドント野郎くん(ある無名の漫画家)と大立ち回りを演じ、誰よりも感心な子として大活躍して見事に粉砕した。

 さえない漫画家・ドント野郎くんは、茶目子が差し出した「自己直面」鏡に映った巌窟翁の自画像に初めて直面して、ガラガラガラと音を立てて消滅したのだった。しかし、それは心なしか嬉しい期待通りの、さわやかな自己解体であったに違いない。

 尋常小学読本『茶目子』はスイート・アンド・マイルドなテイストを、ふんだんに盛り込んだ過剰サービスで楽しませてくれる。それは『福神町綺譚』(2000年9月まで月刊ウルトラジャンプ連載で、著者と読者とによる双方向性構築・実験漫画として話題を呼んだ)にまで連なる、藤原カムイの趣向のやみ難い徹底であるだろう。大正3年、「大正博」博覧会で発生した事故によって、東京・福神町はアナザーワールドに飛ばされ、そこに住人登録参加する読者と共にデフォルメを遂げるというからくり世界が、この漫画で用意された。カムイという名の福神が「何故か空しい戦いであったにしても、この世の中にはリアルじゃないものも必要なんだ」という、茶目子が学んだ教訓をここでも活かし続けている。

 藤原カムイは明朗快活な良い子に捧げる一篇の詩を、『茶目子』読本の目次欄に掲示している。それは次のような詩である。巌窟翁の自画像としてここに引いておきたい。秘密基地ごっこで培った少年の夢は、永遠にお茶目な志を失わずに全うしていくことだろう。
 


みんななかよし 北川幸比古 詩

くちぶえふいて あきちへいった 
しらないこがやってきて 
あそばないかと わらっていった
ひとりぼっちは つまらない
だれとでも なかまになって
なかよしに なろう
くちぶえふいて あきちへいった
しらないこはもういない
みんななかまだ なかよしなんだ

 

(漫天)