≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(72)

この度の先生の話は、出身により私に思想的な問題があるという批判教育で、中学に来てから初めて聞くものでした。私は本当にその当時、その本当の意味が何なのかを理解することができませんでした。

 その日の夜、寮に帰っても寝つけませんでした。中学に入学して以来のやることなすことを思い出してみました。いつも学校の言われるようにしてきたし、教室での学業であれ、学校建設の労働であれ、私は言われるままに真摯に努め、最大の努力を払ってきたつもりでした。

 学友との間もすべて平等で友好的な付き合いをしてきました。誰とも意見の対立はありませんでした。ただ、宮崇魂とはお互いに信用した比較的親密な付き合いをしていましたが、これは人として自然の感情だったと思います。

 私はその他の学友に対しても、学習上で熱心に助けてあげていたのに、なぜ深刻な「資産階級思想」があると言うのでしょうか。まさか、人はある階級に区分されてしまったら、その階級に属するすべての人が同じ思想を持っているということであり、いかなる変化もありえないというのでしょうか。私にはどのように考えても、判然とはしませんでした。

 私はクラスの団員に聞いてみようと思いましたが、いろいろと気になることもあり、もっと厄介なことを引き起こすのでないかと恐れ、自分だけで悶々と悩み苦しみ、誰にも打ち明けられませんでした。

 ある日の晩ご飯の後、私のクラスの組織委員であった顔喜貴が突然話しかけてきました。小声で私の日本名を尋ねてきたのです。そしてどこの開拓団だったかと聞いてきたのです。私は始め躊躇しましたが、その後簡単に彼の質問に応えました。

 私はそこで、彼に団員たちが私をどう思っているかを尋ねてみました。彼によると、皆は私を敬服している。学業では無論のこと、仕事の面でも、労働の面でもみんなの手本となっている。かつ態度が真面目であり、同級生の勉強の面倒も見ているし、とても他人を気遣う……。

 私は途中で彼の話を遮り、私の欠点を言ってほしいと頼みました。彼は何も答えませんでしたが、しばらくして、劉先生は私が宮崇魂とあまりに親しすぎると感じていると教えてくれました。これからは、関秀琴のように年齢がいっている貧農・下層中農の子供を助けたほうがいいと言いました。

 私はこれでやっと、出身のよくない人とたくさん接触するのは良くないとされるということが分かりました。しかし、自身では間違ったことをしているとは思えなかったので、宮崇魂とは以前と同様に付き合いました。彼女は今でもこの事を知りません。

 私は他の学友とも相変わらずお互いに面倒を見合い、助け合いました。中学を卒業するまで、私は同級生全員と仲良くし、意見の衝突や喧嘩もありませんでした。私は今になっても中学の同級生たちに感謝しています。彼らは、あのように出身がやかましく言われていた時分に、真心から私に温かい思いやりを示してくれました。そのおかげで、私は帰る家のない孤独と寂しさを感じずに済んだのです。

 顔喜貴によると、私の申請書を見てから、やっと私が日本人であることが分かったそうです。彼は先週家に帰った時、お母さんにも、クラスにもう一人劉淑琴という日本人の女の子がいると話したそうです。彼のお母さんは、私に家に遊びに来るように言ってくれましたが、ついぞ中学を卒業するまで彼の家に行くことはありませんでした。周囲の人々に、私が日本人と往来していると噂されるのを避けるためです。

 卒業後、顔喜貴は高校に受からず、農村に帰りました。しばらくして、結婚して家庭をもったとのことでしたが、その後は会っていませんでした。1972年の「日中国交正常化」後、彼は第一陣として日本に親族探しで帰国しました。(彼の母とお姉さんは1960年にすでに日本に帰っていました。)彼は日本から帰って来ると、私の家に来て、日本で撮った写真を私に見せてくれ、日本の情況を紹介してくれました。彼は、戦後、現代日本の情況を初めて私に紹介してくれた人です。

 (続く)