≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(73)

私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、さらには綿入りの靴まで買ってくれたのでした。これは私にとって初めて身に付ける綿入りの上着と柔らかくて暖かい綿入り靴でした。私が中学に入った最初の年は、学費と小遣いはすべて孫おじさんが用立ててくれました。

 孫おじさんは私のため、東京の町の大豆油加工工場に異動して、食堂でコックをするようになりました。寧安まで私に会いに来るには、沙蘭より便利だったのです。

 孫おじさんには身内がなく、私を本当の娘のように扱ってくれ、工場の人たちもみな、私を孫おじさんが養子にした日本人の娘だと思っていたようです。私も孫おじさんを家長としていました。休暇期間になると、東京の町へ孫おじさんに会いに行くのが常でした。養母の家を出てからは、孫おじさんが実際の父親と同じようなものでした。

 中学に入ってからの初めての冬休み、同級生たちは荷物を準備して家に帰ろうとしているのに、私には帰る家がありませんでした。孫おじさんも工場の集合住宅に寄宿していました。

 学校の寄宿生はすべて新年を過ごしに家に帰るので、寮には誰もいなくなり、火も起こさなくなり、どの部屋にも鍵が掛けられるのです。私は困りました。私は、帰る家がないこの困った情況を、寮を管理していた鄭克勤先生に相談しました。先生はとても同情してくれ、休暇期間中も寮に寄宿することを認めてくれました。ただ、くれぐれも節電をして、火災には注意するよう言われました。私はとても嬉しくなりました。

 それ以降、私は休暇になるたびに学校の寮で過ごしました。この年の冬休みに帰省しなかったのは、私と上の学年の男子学生だけでした。彼はふだん口数が少なく、休暇が終わっても、何と言う名前か分かりませんでした。

 入学してから最初の二年は、寮は寧安鎮の南にある銀行の向かいにありました。毎日朝早くに体操をして、急いで洗面を済ませ、皆で揃って遠い道のりを集団登校するのでした。

 寮ではクラスで区分されているわけではなく、部屋単位で区分されていました。冬になると日が短くなりました。冬は大体において集団で走って登校したものですが、学校に着いても、まだ夜は明けていませんでした。私たちの頭巾の両側は、霜が降りて真っ白になり、どの学生の頬も寒さで真っ赤でした。

 学校に着くと、各クラスの学友は自分の教室に入っていき、静に自習を始めます。夜も、晩ご飯を食べ終わってから、夜の自習をし、その後に集団で下校します。

 私たちの毎日の食事は、大概が高梁のご飯とダイコンのスープでした。日曜日だけは小麦粉の饅頭を食べることができましたが、二食だけでした。そのため、寄宿生の各家はいつも何かしら差し入れをしていました。ただ私だけが家がなく、差し入れをしてくれる人がいませんでした。

 学友達は日曜日になると、夜寮に帰ってから、乾燥させた主食を食べたり、スイカやひまわりの種を食べたりなど、間食をしていました。私はこの時になると、いたたまれなくなり、外へ出て行きました。

 (続く)