≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(74)

二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥玲と周静茹もいました。彼女たちは、妹のような存在でした。

 劉桂琴は、クラスの団支部で書記をしていました。彼女は温春小学校で共産主義青年団に加入していました。幼少の時期に両親を病気でなくし、それからはずっと次女であるお姉さんの家で生活していました。お姉さんのご主人は農民で、人柄はとても誠実で、劉桂琴を自分の実の妹のように可愛がっていました。

 彼女にはさらに三番目のお姉さん・劉桂雲もおり、寧安鎮に住んでいました。お姉さんとご主人はともに、寧安県政府に勤務していました。そのご主人は、日本開拓団の学校で教鞭をとっていた劉全余先生の息子さんでした。当時、劉明仲もまた開拓団の学校で勉強したことがありました。彼ら父子は、まだ日本語を忘れておらず、かなり流暢に話していました。

 劉桂琴の人となりはとても親切で、他人に思いやりがあり、さらに容姿端麗で、当時の高学年の同級生たちからは「劉三姐」のニックネームを付けられていました。

 学校に留まって帰省しない人に、高校二年生の李福忠もいました。李福忠の家は三霊屯の東崴子にありました。父親はすでに他界していて、母親が彼を連れて「汪」姓の家に嫁いでいました。

 汪という継父の家には、寧安高校で勉強している汪富山という学生がいました。彼は李福忠より二歳年上で、バスケットボールがうまく、学校の代表チームで主将をしていました。ちょうどこの年に高校を卒業し、北京の砲術学校に進学することになっていました。

 李福忠はこの年から、毎回休みになると学校に残ることになりました。私たちこれら境遇の苦しい子供たちで学校防衛隊を組織しました。休暇の期間、事務の先生と協力して、学校の整備の仕事を手伝ったのです。

 李福忠は本を読むのが好きで、私たちに一読の価値がある本を推薦してくれました。そして読後に、互いに感想を述べ合うのでした。

 あの当時、私たちは同じクラスではありませんでしたが、共通の話題で話が尽きませんでした。私たちは実の兄弟姉妹ではありませんでしたが、本当の兄弟よりも親密になりました。運命を同じくし、時代の艱難を共にした友人であり、運命が私たちをより一層緊密に結びつけたのでした。

 その後、私たちは卒業して母校を離れましたが、依然として以前のような密接な関係を維持して、今もなお連絡しあっているのです。

 (続く)