≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(77)

孫おじさんの死 再び「父親」を失う

 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。肺気腫で、ぜんそくを患っていました。一時期、私は日曜日になると朝早くにバスに飛び乗り、牡丹江の療養所まで見舞いに行き、服を洗濯したり身の回りの世話をしたりしていました。冬休みに入ってからは、晩も病院に泊り込みで世話をしました。だんだん良くなると、私はやっと安心して学校に戻るのでした。

 私が見舞いに行くたびに、孫おじさんは喜びました。「この子は私の娘で、寧安一中で勉強しているんだよ」と医師や看護士に言っていました。孫おじさんも確かに、言ってみれば私の父でした。私が劉家を離れてからこの数年来、進学してからの小遣いや洋服はみんな、孫おじさんがくれたものでした。おじさんは、タバコを吸わず酒も飲まず、ただ私のことを気にかけてくれていました。

 当時、私は本当に、孫おじさんを働かせたくはありませんでした。私は、孫おじさんと一緒に住み、養ってあげたい、そして、養父も連れてきて、孫おじさんの連れとして、二人共に幸福な晩年を過ごして貰いたいと思いました。

 私は孫おじさんが病院で寂しい思いをしているのではないかと心配し、学校に帰ってきてからは、二日おきに手紙を書きました。私は旧正月を病院で過ごそうと準備していました。孫おじさんと一緒に新年を祝いたかったからです。

 しかし、事は願い通りには運ばないもので、年越しを待たずに、孫おじさんは逝ってしまいました。

 しかし、私に知らせてくれる人は誰もいませんでした。私は喜びいっぱいで、療養所で孫おじさんと一緒に大晦日を過ごすつもりでした。その晩、私が病院に来て病室の扉を開けると、孫おじさんの寝ていたベッドと布団がすべて片づけられていました。私は病室が換わったのだと思い、先生に尋ねに事務室へ行きましたが、先生たちはみな休んでいました。

 宿直の看護士が、「孫彰徳さんは亡くなりました」と教えてくれました。私は信じられませんでした。ほんの一週間前に来たときには、孫おじさんの意識ははっきりとしており、嬉しそうに話しかけてきたのに、どうしてこの数日で息をひきとったりしたのでしょうか。

 私はとても悲しく、また後悔しました。誰も私に知らせてくれる人がいなかったのが悲しく、孫おじさんの臨終の間際に傍にいてあげられなかったのがとても悔やまれました。孫おじさんは善良で慈愛に満ちた父親でしたが、臨終の際には、傍で看取る身寄りが誰ひとりいませんでした。

 私は心が張り裂けそうになり泣き出しました。孫おじさんが私を可愛がってくれたのに申し訳ないという気持ちでした。もうおじさんの温情に報いようと思っても報いる術がないのです。

 孫おじさんには身内がありませんでした。劉家を離れて以来、おじさんはずっと私を実の娘のように扱ってくれました。私もまたずっとおじさんを、慈悲深くて優しい父のように考えてきました。私たちは寝起きを共にすることはできませんでしたが、運命が私たちを実の親子のようにしっかりと結び付けていました。私はこのように慈愛に満ちた父に廻りあうことができて本当に幸せでした。

 しかし、私が孫おじさんの慈しみに報いる前に、おじさんは早々と逝ってしまい、しかも、あまりにも突然でした。私は独りぼっちになった孤独を感じていました。私はまたしても、本当に私を愛してくれた人を失ってしまったのです。

 療養所の郵便箱の中を覗いて見ると、私が数日前に書いた孫おじさん宛ての分厚い手紙がまだ残っていました。孫おじさんは、私の手紙を読む前に息をひきとったのです。現在でも私は、孫おじさんの冥福のために祈りを捧げています。私は永遠に、おじさんの温情を忘れることができません。

 学校に帰ってみると、宿舎に残っているのは私だけでした。関桂琴は石頭站の二番目のお姉さんの家に行き、劉桂琴も二番目のお姉さんの家に新年を祝いに行きました。李福忠も継父の家へ母親に会いに行きました。

 それに引き換え、私は身を寄せる親戚もなく、物寂しく感じたものです。幸い学校には、事務室に宿直の先生が二人待機しており、私に瓜子(スイカやカボチャの種)や飴などをくれました。

 (続く)