中国崑崙山の仙人(23) 龍の故郷

【大紀元日本4月16日】

前書


本文は、私が知り合った先天道を修めた平先生(500歳)の経歴を記録したもので、文章はすべて記憶によるものである。何人かの人の記憶を統合したもの、または私と平先生の間であった途切れ途切れのいくつかの対話を元に書いたものであるため、文の繋がりがよくないと感じるところもあると思われる。私はそれらを一つに統合し、論理的な文脈を整えるため、想像を使った文字を加える場合があったが、事実を離れた記述はない。平先生との経験から、私は世の中の多くの出来事は人が思っているものとはまったく違うということが分かった。本文を読んだ後、多くの人は考え方が変わると思う。

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 十四、龍の故郷

私たちは夜半のうちに、一路東に向かって洞庭湖へと足を運んだ。

道中、私が平先生に、龍について話してほしいとしつこくねだると、平先生は「崑崙は龍脈が帰るところで、洞庭は水脈が集まるところである」と言った。この洞庭に中原の水脈が集まる一方、崑崙は龍脈の源の地であるという。彼によると、崑崙には「龍帰」と呼ばれる、とても大きな龍の故郷があるが、そこは龍の墓地とも言える。龍は一定の寿命を終えると崑崙の「龍帰」に戻り、そこで最後の日々を過ごしながら死んでいくのだ。また、多くの幼い龍たちも「龍帰」から新しく生まれ、そこを離れても最後にはまた帰ってくるのである。

平先生が静修するところは正にこの「龍帰」にあり、彼はずっとそこを見守っており、そこの安寧を守っている。そこは、龍が静かに憩うことのできる最後の場所であり、誰かに騒がれてはいけないのだと言う。

これ以降のことについては、皆さんも予測できたかもしれない。洞庭についた後、彼は龍陣を立て、「黒魚妖怪」のすべての退路を閉じ、「蜮」を放して、それと戦わせた。最後に、一緒にそれらの命を断ち切り、湖底に沈めた。平先生は「黒魚妖怪」を取り除き、洞庭湖と龍族を守ったのである。

十五、法則

平先生によると、太極が両義を生じた後、陰陽は相生し始め、数え切れない空間と境界を生むが、これらの空間、境界の時間はそれぞれ異なるという。時計に例えると、分針が1つ動く時、秒針は60回移動し、多くも少なくもない。宇宙と天体、他の空間境界の運行も同様で、極めて規律正しく運行しており、少しの乱れも許されない。少しでも乱れたら、それは解体し、建て直される。この規律は法則で決められているが、これらの規律や法則を元に、大概のことは推測できるという。天象が変化する時、上がすこし動くと、下はたくさん動くようになり、多くなったり、少なくなったりしてはいけない。そのため、古い時代の多くの先覚者は、数千年後の歴史を予言することができたのである。私はこのように簡単に述べたが、実際の宇宙の運行と規律は極めて複雑で玄奥で、簡単なものではない。私はただ自分の理解を元に、説明しやすくするために、あまり適切ではないいくつの例をあげただけであるが、大体のニュアンスを掴むだけでよくて、字句を一々深く考えなくてもよいと思う。

平先生は、「人は世の中に迷ってしまい、自分自身も見失っているのに、自然を認識する知恵はどこにあるのだろうか」と、述べたことがある。

彼は、肉体を抜けて世界を見ると、全てが「法則」で全てが「道」であることが分かり、「道」と「道」の間は通じ合うのだと言った。もしそれが正道であれば、通じ合うのである。それ故、私が述べた多くのことが自分らの門派と似ているからと言って、同じ門派同士だと思い込む人もいるが、私は彼らの誰とも同じ門派ではなく、知っていることも本当に少なく、限られているので、そのように誤解しないでほしい。全てが「道」であって、全てがその「道」の理に符合しなければならないが、そうでないと通じ合うことはない。また現代人類の科学というのも、人類というこの宇宙で一番低い境界の「道」に符合しなければ、成り立つことはできないのだ。しかし、それは一番低い境界の「道」であるため、それだけを信じて、それが本当の「道」だと思い込んでしまったら、人類は永遠に、最も低い人類の境界を越えることができなくなり、永遠に一番可哀相な生命にならざるをえないのだ。

それでは、平先生の途切れのない解釈と自分の理解を元に、そして現代人類の知識の角度で、できる限りこの世界の構造について述べてみよう。

人類はみな共通して、目に見えることだけを信じ、「目に見えるものが確実だ」と言って、他は一切信じない。

しかし、平先生は、人間の目で世界を見ると、物事の真偽は変化が絶えず、本当の真実を把握することは容易ではないと言う。実は、肉眼で見えることはとても限られており、それは赤外線と紫外線間の極めて狭い範囲の、ただの七種の可視光線を見る一つのツール(道具)にすぎないのである。赤外線と紫外線の周波数を超える他の各種の電磁波は見ることができないのだ。とは言え、これらの電磁波の存在を否定できるかと言ったら、否定できない。更に、人間の目では小さすぎるものは見ることができず、大きすぎるものも完全には見ることができず、遠くにあるのもはっきり見えないどころか、近くにある自分でさえ全貌を見ることができない。緑内障や白内障などの眼病を患っている人を、「盲人」に違いないという人もいるが、神の目からみれば、人間こそ本当の「盲人」に違いないのだ。「盲人」が世界を見ることができず、世界は真っ黒だと言うと、あまりにも悲惨すぎるのではないだろうか?

「盲人が太陽を探る」ということわざを思い出す。つまり、あなたが盲人と太陽について話したとしても、彼が分かるように説明することはできないし、彼も触ることができないということだ。私たちは目だけではなく、心で世界を見ることを覚えておかなければならない。

人類は、世界の全てのものは分子から構成されていると見ている。分子は原子で構成され、原子は更に原子核と電子で構成されている。原子核を分け続けると、数え切れないほど無数ある。では、物を構成する最小の粒子は何だろうか。それは人類にとって未だに謎である。

 (翻訳編集・柳小明)