共産主義の親

親友はみんなサタニスト カール・マルクス 悪魔への道(下)

実はクリスチャンだった カール・マルクス悪魔への道(上)の続き

社会主義はサタンのわな

マルクスが演劇『オーラネム』などの作品を書いた頃は、まだ社会主義の理念を持っていなかった。それどころか、彼は社会主義に激しく反対していた。「ライン新聞」の編集長だったマルクスは次のように書いた。「単に理論的なものであっても、共産主義の存在は許せない。実践などはとんでもない…」

その後、マルクスがモーゼス・ヘス(Moses Hess)に出会った。ヘスはマルクスに最も大きな影響を与え、社会主義の方向へ導いた。1841年にヘスがB.アウエルバッハ(B.Auerbasch)へ書いた手紙の中でマルクスについて、「若き(当時24歳)哲学者のマルクス博士が偉大で唯一なる存在。彼は間違いなく宗教や哲学に致命的な打撃を与えるだろう」と評した。

当時のマルクスは社会主義を実現させるより、既存の宗教の滅亡を目指していた。あらゆる神に対して恨みを持ち、神への敬意を敵視し、イエスの教えにも敵反感を抱いていた。

当時の友人ジョージ・ユング(George Jung)が1841年、「マルクスはきっと神を天国から追い出し、告訴も辞さない」と書き残していた。マルクスは最終的に創造主の存在を否定した。創造主がいなければ人間は自らへの戒めを持たなくなると主張していた。このことはマルクスが宣言した「共産主義者は道徳を唱えない」でも示されている。

また、当時の男性はひげを生やしていたが、きちんと整え、短髪だった。マルクスの外見は異端であり、ぼさぼさの長髪でひげは伸ばしたままだった。この外見の特徴は、ジョアンナ・サウスコットが主宰した悪魔教信者の特徴だった。

悪魔シロと交信できると自称していたサウスコットの死後、1875年ごろ、ジェームズ・ワイト(James White)がサウスコットの教義に共産主義的な意味合いを持たせるようにした。

マルクスはイデオロギーのことを公に話すことは少なかったが、彼をよく知る友人の言論からその一部分を知ることができる。マルクスと共に「第一インター(国際労働者協会)」を設立したロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニン(Mikhail Bakunin)はこのように自分たちの信仰を語っている。

 「邪悪の主のサタンは、神に反逆している。この反逆は人類に解放、つまり革命をもたらしている。社会主義者は『私たちはその間違って扱われたサタンの代弁者』だと自らを定義する。サタンこそは永久なる反逆者であり、初めての自由たる思想を持つ救世主である。サタンこそ、人々に卑怯(ひきょう)な無知と従順さを恥辱であると感じさせ、人々を解放した。彼は、人々の額に解放の印を付け、人々に反逆の旗を振らせ、科学知識という果実を食べさせた」

 さらにバクーニンは、「革命により、人々の心に潜む悪魔を呼び起こし、人々のもっとも卑劣な激情をかき立たせる。我々の使命は教えを伝えることではなく、破壊そのものなのだ。破壊の欲望はすなわち創造の欲望である」と書き下ろしていた。

親友はみんな悪魔教徒

 マルクスの友人のP.J.ブルードン(P.J.Proudhon)は社会主義者で、サタンの崇拝者でもある。彼はマルクスと同じような髪形をし、ひげを生やしていた。また、ブルードンも同じように神を侮蔑し、サタン召喚(しょうかん)の詩を書いていた。

 ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネもマルクスの親友の1人で、彼もまたサタンの崇拝者である。彼の詩にこう書いてあった。「私は悪魔を呼んだら、彼が来た。驚きを抱くも、私は彼の顔を見つめた。彼は決して醜くない、というより、かわいくて魅力的な男だ」

 「私には一つの願いがある。家の前に何本か美しい木があり、私を喜ばせたい神がこのような場面を見せてくれる。私の敵6、7人がこられの木で首をつるされ死んでいる。私はあわれみの心で彼らの過ちを許す。そうだ。我々は敵の過ちを許さなければならない。ただし、それは彼らの死後でのことだ」

 マルクスはそんなハイネを羨望(せんぼう)していた。ソ連初代文相で哲学者のルナチャルスキーは『社会主義と信仰』のなかで、「マルクスは神との関係を断ち切り、サタンを行進中の無産階級(賃金労働者階級)の前に立たせた」と記した。

造物主と同等であると自負

 最もマルクスに寵愛(ちょうあい)された末娘のエレナ(Eleanor)はマルクスの同意のもとで、エドワード・エベリング(Edward Eveling)と結婚した。サタンへ憧れていたエベリングは「神の悪」という演説をしたことがある。演説の中で彼はサタンを「偉大なる」存在とたたえ、「口うるさい」神を聖なる座から引き降ろし、その地位をサタンに譲るべきだと熱弁をふるっていた。

 また、マルクスの息子のエドガー(Edgar Marx)が1854年3月21日に彼に書いた手紙のなかで、父親を「親愛なる悪魔」と呼んでいた。この呼び方はサタン教で愛する人を呼ぶ名前として一般的だったという。

 マルクスの妻が1844年8月に彼に宛てた手紙には、「大司祭様、どうかかわいそうな羊たちに平和と安らぎをお与えください」と、2年後に『共産党宣言』を起草し、すべての宗教を消滅させることを誓ったマルクスを「大司祭様」と呼んだ。彼は何教の司祭と自称したのだろうか。

 また、自ら書いた詩「ヒューマン・プライド」では、マルクスは自分の目標が世界の改善や革新ではなく、世界の破壊だと認め、それに喜びを感じていると吐露した。

 軽蔑に、私は世界という顔面に
 鎧(よろい)を投げつける
 このデブデブとしたヤツの崩壊を見届けてやる
 しかしコイツの倒壊はまだ私の激情を鎮められない
 私は神のように
 この世界の廃虚の中を通り抜け、凱旋(がいせん)する
 私の言葉に強大なエネルギーを持つときは
 私は感じるだろう
 造物主と同等であることを

 サタン教の思想を表現している詩はこのほかにもあると考えられるが、マルクス思想の信者らがそれらを公にすることを拒み続けた。これについてアルベール・カミュ(Albert Camus)が『革命者』という本でこのように書いている。「マルクスとエンゲルスが書いた30巻の作品は出版されたことがない。これらの作品で表現されているとらえどころのない不規則な理念は、世に知られているマルクス主義の思想とかなりかけ離れている」

 これに対してモスクワにあるマルクス・エンゲルス研究所の副所長M.Mtchedlov教授は、「マルクスの作品は100巻以上あるが、出版されているのはわずか13巻」と改めている。

入信後の乱れた生活

 マルクスは他のサタン教徒と同じように乱れた生活を送っていた。

 アーノルド・キュンツリ(Arnold Kunzli)はカール・マルクスの生涯を書いた本の中で、マルクスの親族数人の奇妙な人生について記述していた。次女ローラが社会主義者のポール・ラファルグ(Paul Lafargue)と結婚したものの、自ら3人の子供を殺し、自分も夫と一緒に命を絶った。末娘のエレナは夫と一緒に姉と同じ道をたどろうとしたが、自分は命を絶ったものの、夫は死に際で躊躇(ちゅうちょ)したという。

 マルクスはお手伝いのヘレンと関係を持ち、隠し子ももうけたが、後にその子供をエンゲルスに養子入りさせた。また、マルクス・エンゲルス研究所のリャザノフ(Riazanov)所長はマルクスがアルコール依存との事実を明かした。

 偉大なる革命家マルクスにはもっと卑しい過去があった。

 ドイツの新聞『Reichsruf』1960年1月9日付の記事では次の事実を伝えた。オーストリア当時の首相ラービー(Raabe)がソビエトの最高指導者ニキータ・フルシチョフに見せたマルクスの自筆の手紙はフルシチョフを喜ばせなかったという。この手紙は、マルクスがかつてオーストリア警察の密告者であり、革命者の情報を警察に提供することで賞金をもらっていたとの証拠を示した。

 資料館で偶然発見されたこの手紙によると、マルクスがロンドンで亡命していた時期に、革命の同志を密告していた。ともにロンドン、パリ、スイスなどで亡命していた同士に関する密告は1つにつき、マルクスは25クローネの賞金を手にしていた。密告された中にはルージュ(Ruge)という革命家もいたが、彼は自分がマルクスの親友だと思い込み、2人の間で往復した情熱あふれる手紙は今も保存されている。

 また、マルクスは家族を養うことなど脳裏になかった。数カ国の言葉を自由に操れるマルクスは、生活が不自由なはずはなかったが、彼はエンゲルスからの援助で生計を立てていた。マルクス・エンゲルス研究所の資料によると、マルクスは生涯に渡り、エンゲルスから合計600万フランをもらっていた。

 マルクスは家系の遺産に対する執念も深かった。病気の辛さを耐え忍んでいる叔父に対してマルクスは、「あの犬が死んでしまえば、(財産の引継ぎの)妨げもなくなる」と書いていた。

 彼は母親に対しても容赦しなかった。1863年12月に、マルクスは母親の死について、エンゲルスにこう書いた。「2時間前に電報が届いた。母が死んだらしい。家族は亡くなる運命で、私もいつかは死ぬだろう。多くのとき、私に必要なのは1人の老人ではなく、その財産だ。それをもらいに、トリーアにたつ」

 マルクスは無産階級を「愚かなガキ、ごろつきども、ロバ(間抜け)」と表現していた。彼は結局一生涯、誰も愛さず、誰も信じることはなかった。
 

(翻訳編集・張浩)