千歩歩くと出会える台湾 400年の歴史を旅する!淡水日帰り遺跡巡り(下)

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前回は、16世紀の紅毛城建設から19世紀の淡水税関埠頭開通まで、淡水の約250年の歴史を共に見てきました。続く150年では、どのような物語が私たちを待っているのでしょうか。

1872年、有名な宣教師・馬偕(本名はジョージ・L・マッケイ)が台湾に移住し、布教、医学、教育の3つの面で淡水に大きな影響を与えました。

(動画はこちらから  9:52~)

続いてやってきた「滬尾偕医館」は、台湾北部で最初に建てられた西洋病院です。院内は診察室だけでなく、処方薬局、病室まで完備されており、当時としては非常に規模の大きな病院でした。

当時の人々の生活に大きく貢献した滬尾偕医館のすぐ隣には、淡水で最初にできた教会があります。もともと医館の従業員用の宿舎だった建物を1932年に改築したもので、ゴシック様式に倣って建てられたこの教会は、現在も礼拝の拠点となっています。

 

日本統治時代から重要な位置づけとなっていた「淡水礼拝堂」(shinee / PIXTA)

 

宣教活動のみならず、医療や教育などさまざまな西洋文化を淡水に持ち込んだ馬偕博士は、幅広い分野で台湾に大きく貢献したとして、現在でも台湾の人々から尊敬されています。淡水には彼の足跡をたどることのできる場所がいくつもあり、彼の名前を冠して「馬偕街」と名付けられた道もあります。

馬偕博士が台湾に残した教育の跡地として知られる「理学堂大書院」は、台湾北部で最初に建てられた西洋式学校で、東洋と西洋を入り混ぜた建築様式が用いられ、馬偕本人がデザインしたものです。当時、台湾に十分な教育設備がないと知った馬偕博士の故郷、オックスフォード郡の人々からの寄付によって建てられた学校であるため、英語名ではオックスフォード・カレッジと名付けられました。

建物は、一見すると中国伝統住宅風の四合院様式ですが、窓や扉はアーチ型になっており、屋根も三角形の通気窓と西洋の教会の屋根と同じような尖った飾りが設けられ、こちらも東洋と西洋の建築様式が見事に合わさったデザインとなっています。

教育の場が設けられ、医療が伝わったことにより、淡水の人々の生活は徐々に豊かさを増していきましたが、平和な時代がずっと続いたわけではありませんでした。

1884年に起こった清仏戦争の際、ここ淡水も戦場の一部となり、台湾の清軍が唯一フランス軍に勝利したことで、その時の戦いは「淡水の役」として今も語り継がれています。これにより、台湾の近代化が一気に加速しました。

その後、台湾の戦略的地位を高めるため、省を設立したほか、鉄路や電報局、郵便局、学校などが、台湾省の初代巡撫である劉銘伝の推進の下で創設されました。

それから間もなく、1895年からは日本統治時代に入り、日本様式の建物や庭園などが増えていきました。

続いて紹介する淡水街長多田栄吉故居は、1934年に完成した伝統的な日本様式の住居で、台湾全土で最も早く水道を引いた住宅であることでも知られています。

 

1934年に建てられた台湾で最初に水を引いた「淡水街長多田栄吉故居」(パブリックドメイン)

 

多田栄吉故居の近くには、同じように日本らしさを感じることのできる建物がもう一つあります。2019年に新しく観光スポットとして開放された「日本警察宿舎」は、日本統治時代から2007年までは警察官の宿舎として実際に使われ、その間、何度も改築されて、現在の和洋折衷のスタイルになりました。

ここまでの淡水遺跡巡りの旅では、1624年から現代に至るまで、オランダ統治時代の台湾から現代の台湾まで、皆さんを淡水老街の約400年の歴史へと案内しました。歴史感あふれるいくつもの遺跡や建物はもちろん、にぎやかでありながらも風情を感じる街並みと食欲をそそる美味しそうな匂いは、まるでタイムスリップしたかのような感覚を味わわせてくれます。

故きを温ねて新しきを知る。良いことだけでなく、悪いことも、過去の様々な出来事があったからこそ、今日の台湾があり、そして未来へと繋がっていくのでしょう。

(翻訳編集・天野秀)