胡同:消えゆく、北京情緒溢れる町並み

2005年08月06日 11時29分
 【大紀元日本8月6日】清、明の時代に建てられた伝統的住居である「四合院」(注1)と、それらの住居が立ち並ぶ古い町並み「胡同(フートン)」(注2)は北京を代表する歴史的文化財である。しかし、急速な都市化の波に押され、これら建築物は徐々に高層ビル群の中に消えつつある。
北京の胡同

 消えゆく古都の記憶

 1949年ころには三千はあったといわれる北京の胡同は、1980年から2000年までの間に、およそ千五百が無くなり、今では数百しか残っていないといわれている。

 宣武区市場入り口、東南側にある米市胡同は、至るところに歴史を刻んだ古い家が建ち並んでいる。しかし最近、ここの胡同が取り壊されるという公告が貼り出された。米市胡同43号は、康有為氏(注3)が生前に住んでいた家で、「広東南海会館」と呼ばれ、古都の静かで典雅な外観と風格を持つ重要な文化遺跡の一つであるが、これも取り壊しの運命に遭うかもしれない。

 幼少時代から北京に住み、育てられたフランス人の血を引く作家・華新民氏は、中国古代の建築に深い思慕の念を抱いている。華氏はこれらの建築は全て中国文化を代表するものであると、命がけで胡同の取り壊し作業を阻止しようとしたこともある。華氏は、利権目当てで勝手にこれら重要な文化財を壊すことは許されないと人々に呼びかた。

 至るところに移転や撤去の看板が出ており、最終的に全てが取り壊されてしまうのでは、と華氏は焦っている。華氏は、東城・麻線胡同3号の私有庭園も含めて、古くから人々が生活し、親しんできた風情溢れる北京の胡同が急速に消えて行くことを憂慮している。

 華氏は、長安街より北の胡同は元の時代、大都建設のために計画され建てられた世界に誇る重要な歴史文化財であると主張している。しかし、同区内の紅星胡同、東堂子胡同は撤去中で、取り壊されてしまえば、元の時代の大都は見ることが出来なくなる。また、前北京大学学長・蔡元培氏は、清の時代の総理府が東堂子胡同の中にあると話し、落胆している。

 四合院がなければ、北京ではない

 1990年より北京の再開発と都市化が進む中、胡同に建ち並ぶ旧式の家は既に430万平方メートル以上の場所が取り壊された。大量の四合院建築は高層ビルに取って代わられた。2000年、文化財官庁の大まかな計算によれば、北京の四合院は更に100万平方メートルも減少したことが明らかとなった。

 中国の名士、梁啓超氏(注4)の孫に当たる、歴史学者の梁従誡氏は、北京の古城壁を守る父親梁思成氏の遺志を継ぎ、長年奔走してきた。梁氏は、今がもっとも深刻な時であり、住民達は故宮を動かせないので、四合院に手をつけてしまったと話した。四合院は胡同の骨組みとなる重要な存在で、胡同と共に取り壊され、高層ビルになってしまえば、北京はもはや北京ではなくなるのだと嘆いている。

 注1)
 四合院:中央に庭を囲んで、東西南北の四面にある4棟(「正房」、「倒座」(母屋と向かい合いの棟)及び東西の「廂房」)からなる旧式の家。

 注2)
 胡同:路地。元はモンゴル語で路地を意味する語を音訳したもの。「井戸」や「集落」の意味を表す言葉からきたと言う説もある。胡同は、北京の伝統的な民家・四合院が並ぶ横丁のことである。

 注3)
 康有為(KangYou Wei):1858年、広東省南海県生まれ。このため「康南海」とも呼ばれている。 1898年、当時の光緒帝のもと戊戌(ぼじゅつ)維新を指導。変法論の主唱者として、西洋の近代国家体制を学んだ先進的な中国人として、また傑出した政治家として知られている。

 注4)
 梁啓超(Liang Qi Chao):1873~1929,中国,清末民国初の啓蒙思想家・ジャーナリスト・政治家。戊戌政変により、日本に亡命した。中国の封建専制政治を痛烈に批判するとともに、中国人一人一人は世界に生き残るための国民としての自覚を喚起すべきであると主張,学生や青年知識人に多大な影響力を与えた。
関連キーワード
^