中国第一の名将、韓信(4)

2007年12月14日 16時49分
 【大紀元日本12月14日】
その二、劉邦の奸計

 「楚漢の争い」中および西漢が成立した初期、劉邦は功臣や大将に褒美を取らせ、前後して十余りの異姓王を封じた。目的は明らかで、一面において項羽と天下を争って勝利するために、人材を集める必要があったこと、また別の一面において、政権の初期であるので、なお堅実ではなく、功臣の人心を慰めなければいけなかったことだ。

 この故に、功臣や大将に報奨するにしても、それは決して自らの本心、真心から出たものではなく、一時しのぎに過ぎなかった。彼は、功臣や大将に対して一貫して猜疑と嫉妬をもち、諸候王の子を関中に遷して、長楽宮に人質として軟禁した。

 一旦政権が安定すると、劉氏の国家を維持するために、彼は功臣や大将に対して粛清を開始した。「謀反」を口実に、あるいは挙兵して討伐したり、姦計で押し詰めたりして、異姓の王を取り除いて、その後に劉氏の子弟である同姓の王を封じて取って代わらせた。燕王の臧荼、梁王の彭越、淮南王の英布、韓王の信(韓信ではない)など、全員がそれゆえに殺された。

 韓信は、劉邦に直接殺されたわけではないが、異姓の王を取り除き、同姓の王を封ずるにあたって、その奸計の犠牲となった。つまり、呂后、蕭何は、劉邦の願いに従っただけである。韓信は、人に謀反を誣告され、劉邦の命を受けた武士に拘束された。韓信はかつてこう感慨した。「果たして人の言う通りだ。『狡猾な兎が死ねば、良い猟犬は(用がなくなって)料理され、空高く飛ぶ鳥がいなくなれば、よい弓はどこかにしまわれる。敵国が滅びれば、智謀の臣は殺される。』天下はすでに平定され、私は固より殺される運命なのだ」。

 韓信のこの段の話は、劉邦の功臣粛清をよく表している。

その三、呂后の野望

 西漢の建国後、呂后を元首にした呂氏は、劉氏の国家を奪い取ろうと画策し始めた。その際、漢朝の開国の元勲は、明らかにその野望実現の阻害であり、韓信もまた、最も疎ましい人物であり、すぐにでも排除したいと考えた。結局、奸計によって宮中に騙し入れられ、謀られて殺害された。

韓信の人生は、数奇で紆余曲折したものであった。彼の人となりは、若くして大志があり、胸襟を広げ、大忍の心があった。主人に仕えるに忠信を以てし、恩人には報いようとし、恨みに報いるに徳を以てする。孟子曰く、「富貴にして溺れず、貧賎にして心を移さず、威武に屈せず、これを大丈夫(だいじょうふ、立派な男子)という」。これに照らすなら、韓信は眞に堂々たる大丈夫と言えよう。

 ただ運命の悪勢力は人をたぶらかした。もともと、韓信は戦いの合間に『韓信の兵法』を著し、後世の人に残して役立てようとしたが、三章を著しただけで、呂後らに謀殺され、『韓信の兵法』も失われてしまった。

 韓信は、劉邦を助けて漢朝の天下を打ち立て、威徳、兵法、知恵は卓越し、空前絶後の人であった。当然、本来なら後世のために兵法を残し、中国の伝統的文化のために秀でた貢献をし、後世の世人に兵法の達人と崇拝されるはずであった。ところが、運命の悪勢力は、劉邦、呂后といった度量が小さく、嫉妬心の大きいやくざ者をそそのかして韓信を殺害し、その優れた兵法を伝わらなくさせた。その結果、中華の民全体の知恵は破壊され、社会における正しい気風の樹立も打撃を受けた。実に惜しい限りである。

(完)
 
(翻訳:太源)

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