【中国「宋代四大書院」】白鹿洞書院掲示の教え⑤

【大紀元日本2月13日】明治維新夜明け前の日本の一大事が、朱子学を巡って準備された。中国の朱子学がどのように日本化されたのか?朱子学との格闘を通じて、日本の国魂(くにたま)に見合った日本化の方法論が突出してくる。中国の朱子学にはない、日本の独創もまたあぶり出された。江戸朱子学の往来を尋ねることは、皇帝の国である中華思想の受容と変容をバネに日本を興してゆく、ジャパネスクな知の姿を見ることに他ならない。

徳川家康は皇帝の国・中国をモデルとして参照しつつ、日本を牽引する幕藩イデオロギーの構築に着手する。何故なら日本という国を、正当な根拠をもって率いる国家イデオロギーを、未だ誰も編み出すことは出来ていなかったのだから。家康は幕藩体制の正当性を根拠付ける一つの理が、朱子学の体系の中にあることを迅速に見抜いた。中国朱子学を徹底的に研究させ、幕藩体制に有用ならしめるために、若き俊才・林羅山を家康は抜擢するのである。朱子学を御用学問として採用する準備に、取り掛かったのだ。

中国朱子学は修身・斉家・治国・平天下を貫く理を、民衆にも分かるように通して見せた。通して見せた理の中から特に「君臣の義」が、日本的朱子学受容の過程で重要視された。幕藩体制を支える「忠と孝」の義理の世界が、官学となった朱子学を看板に勃興する藩校へと行き渡った。白鹿洞書院掲示を旨とする藩校が誕生してくる。

上下定分の理を大義名分によって通して、日本的朱子学が立ち上がってくる。すなわち上から下まで身分の分際をわきまえて生きることが、自然の理(ことわり)を写し取った正しい人間の道とされた。日光東照宮権現・徳川家康が、その頂点にまばゆく輝く幕藩体制は、神道から導かれた権現による権威付け(家康の神格化)が構築され、日本的朱子学を教学システムの中心に据えて天下泰平が維持されたのである。

江戸幕府の朱子学の御用を無事務めた林羅山(1583―1657)は、没落していた家系を再興させて世に出る願望を胸に抱いて、幕政に従事する運命を引き受けた。仏教を排する朱子学を信奉しながら、僧侶の身分での仕官を受け入れた。剃髪した儒学者という矛盾を、飲み込んだのである。羅山はその百科全書的な知を駆使して、次第に幕政に重用されていく。この忍従の光を絶やさなかったことが、林家の子孫の繁栄をもたらすことになる。羅山は朱子学を生きたということなのだろうか? それは分からない。羅山は家康・秀忠・家光・家綱の四代にそつなく仕え、武家諸法度・公家諸法度の制定に才筆を振るった。御用の役に立ったのである。

「権現となった家康、僧衣に心を隠した官学者・羅山」と朱子学が、アマルガムのように日本朱子学の端緒を切って縦走する。その奔流に・・・、朱子学から目覚め、・・・朱子学の源流ではなく、日本のおおもとを創ろうと目覚めた、江戸の偉人達が躍り出てくる。

(つづく)