【チャイナ川柳】四川柳 6月の選評作品

【大紀元日本6月12日】


日中此岸
中日彼岸

【一柳斎評】

日中交流はこちら側(here)の、日本サイドの表現の話。中日交流はあちら側(there)の中国サイドの表現のお話。「日中・中日」と並べてみれば、どちらの呼称が後先になっても、真ん「中」を取り持って縁側の両端で輝く両国の太陽(日)は、ずっと同じものであったはず。

hereと there、たった一字(t)が両岸を分ける。かくして一事が万事、この敷居を越えられないからこそ、全ての難事が両国を隔てている。民族魂の隔差(隔たりの差)を接着剤に友好利用するアイデアが、日中・中日の双方から出て来ることを期待したい。

此岸のサイドと彼岸のサイドを一つにして済度する、中日彼岸=悲願の新世紀はいつやって来るのだろうか?日中間断なくそんなことばかりを考える。時代の中日(なかび)を過ぎれば、彼岸達成の朱鷺の声が本場の中国から届けられることだろう。

此岸と彼岸の正しい願望が交流しあえば、一休さんが橋の真ん中を渡って解決した頓知の知恵のように、両岸の真ん中を通って仲=中良くなれる日中・中日の道は必ず拓かれることになる。志願から悲願へ、彼此を消し去った願いが、日中・中日の未来を将来してすでに駆け巡っている。

(一柳斎卍)