【漫画(MANGA)往来】巌窟翁の自画像~藤原カムイ~

【大紀元日本6月22日】お茶目な子は、もう居なくなってしまったのか? お茶目はかつて現代版・超可愛い!・・・に匹敵するラブリーな誉め言葉であった。無邪気でイノセンスなものへの畏敬が、愛情をもって育てられていた大正時代を回顧する漫画を、明朗快活少女・茶目子に託し、そっと自画像を救済する希望に重ね合わせて藤原カムイが描いた。

藤原カムイは下町情緒が溢れていた頃の、東京都・荒川区で1959年に生を享けた。幼い頃はその当時の少年たちがそうであったように、秘密基地ゴッコに嬌声を上げて過ごした。自分の姿に似せて穴を掘って蟹が甲羅を隠すように、自分に似せて気に入った棲家を創作して幼心を潜ませる楽しさを、秘密基地ゴッコ遊びで存分に味わったことが、岩窟少年・カムイ漫画の素養を築いた。

子どもが発見して築き上げる秘密基地は、他者の目から見かけ上迷彩を施されて隠された、簡素な穴倉のような体裁のものである場合が多かった。ここで藤原少年は一人の巌窟王=翁となって君臨する、ひそかな楽しみを手に入れたと思しい。藤原カムイ漫画を読む楽しさは、この楽園への誘いを受容することに等しい。

大正浪漫を彷彿とさせる荒川区の巌窟少年は、実家のお隣の貸本屋に足繁く通えた地の利の恩恵に浴して、一人前の漫画家になる漫画道を順調にスタートさせていた。すでに同級生仲間に一目置かれる漫画上手の腕前を身に付けた、いっぱしの小学生・漫画家がそうであるのが当然のように産声を上げていた。

長じて高校生になってから使い始めたカムイというペンネームの発見と選択が、藤原少年の漫画道の行く末を図らずも決定付けていたとは、まだ本人自身も知る由もなかった。すでに天の意志は靡いていたというべきか?

巌窟少年が導かれるように歩み始めた漫画道の成功は、テクノポリスな現代を漫画が描く世界によって凌駕する力を蓄積するまで待たなければならなかった。岩窟に閉じ込められた少年の夢が確実に孵化するまで、翁の忍従で堪えることが必要だった。カムイというアイヌの神がトキオシティーで岩戸開きを成し遂げるまでの不遇を、取り敢えずは必然的に生きなければならなかったのだ。

しかしこれはカムイというペンネームを、自らに課して背負った時に懐にした運命の必然であった。それはまた漫画家としての独自性を切り開く幸運を、神(かん)ながらに手中にした事でもあったのだ。