中国伝統文化の精髄-「二十四孝」(5)

【大紀元日本11月25日】「孝」は儒家の倫理思想の核心であり、長い間中国社会で家庭関係を維持するための道徳基準であった。それは、中華民族の伝統的な美徳であり、中国伝統文化の精髄でもある。

元の郭居敬は、中国古代の孝行が特に優れた24人の故事を集め、「二十四孝」を編集した。後に絵が配され、「二十四孝図」として孝行の道を広めるための通俗読み物となった。

(黄香・「二十四孝図」より)

13 黄香

黄香(こうか)は、東漢江夏安陸の人で、九歳で母をなくした。彼は、誠心誠意父に仕え、夏の暑いときは、団扇で父の枕と御座を扇いで涼しくし、冬の寒いときには、自分の体で父の布団を暖めた。

彼は幼くして古典を熟読し、博学で文に長けていた。彼の書く文は江夏の町にその名が広く知られ、人々は彼を「天下第一、江夏に黄香あり」と褒め称えた。

安帝のとき(107-125年)、黄香は魏郡(現在の河北)の太守となった。魏郡がひどい水害に見舞われた際、彼は全ての財産をなげうって被災者を救済した。著作に『九宮賦』『天子冠頌』などがある。

(蔡順・「二十四孝図」より)

14 蔡順

蔡順(さいじゅん)は、漢代の汝南(現在の河南)の人で、幼いときに父をなくし、母に親孝行を尽くした。

時はちょうど王莽(おうもう)の乱のころで、天下は乱れ、又飢饉が訪れたため、米は高騰した。そこで、蔡順と母はやむなく桑の実を拾って飢えを凌いだ。

ある日、桑の実を拾っていたところ、赤眉軍の兵士に出くわし、「なぜ赤い実と黒い実を別々の籠に分けているのだ?」と聞かれた。蔡順は、「黒い実は熟れているので母に食べさせ、赤い実は硬いので自分が食べるのです」と答えた。その孝行ぶりに感動した赤眉軍の兵士は、帰って母に食べさせるようにと、彼に三斗の米と一頭の牛をやって、敬意を表した。

(姜詩・「二十四孝図」より)

15 姜詩

姜詩(きょうし)は、東漢四川広漢の人で、妻は龐氏と言った。龐氏はとても親孝行で、姑においしい水を飲ませるために、いつも3キロあまり離れた長江まで水を汲みに行った。

また、姑は魚が大好きなので、夫婦はよく魚料理を作って食べさせるのだが、姑は一人では食べたがらないため、もう一人分作って、隣のおばあさんを呼んできて、一緒に食べてもらったものである。

ある日、龐氏は水汲みから帰るのが遅くなった。風が強かったためなのだが、夫の姜詩は妻が母を冷たくあしらっていると疑って、家から追い出してしまった。追い出された龐氏は、近所の家に身を寄せて、昼夜を問わず布を織った。そうして貯めたお金を、近所の人に頼んで姑まで届けてもらった。そのとき初めて、龐氏が追い出されていたことを知った姑は、姜詩に龐氏を連れて帰るよう命じた。

龐氏が帰ってきたその日、庭の中から突然泉が湧き出した。味は長江の水と同じで、しかも毎日二匹の鯉まで飛び出してきた。それ以来、龐氏は長江まで水を汲みに行く必要がなくなった。