中国伝統文化の精髄-「二十四孝」(8)

【大紀元日本1月10日】「孝」は儒家の倫理思想の核心であり、長い間中国社会で家庭関係を維持するための道徳基準であった。それは、中華民族の伝統的な美徳であり、中国伝統文化の精髄でもある。

元の郭居敬は、中国古代の孝行が特に優れた24人の故事を集め、「二十四孝」を編集した。後に絵が配され、「二十四孝図」として孝行の道を広めるための通俗読み物となった。

(庾黔婁・「二十四孝図」より)

22 庾黔婁

庾黔婁(ゆ けんろう)は、南斉の高潔な人物で、孱陵の県知事に任じていた。ただ、赴任して十日もしないうちに、虫の知らせで冷や汗を搔き、家に凶事があったのではという予感がした。そこで、即刻官を辞して郷里に戻ってみると、案の定、父親が危篤であった。医者によると、「病状の吉凶を知るには、病人の糞便の味を診てみればいい。苦ければ助かる」とのことだった。そこで、彼は父親の糞便を嘗めてみたところ、甘かったので内心大いに心配になり、夜になると、北斗七星にひざまずき、自身を身代わりにするよう願ったが、数日後に父親は他界した。彼は、父親を弔った後、三年間喪に服した。

朱寿昌・「二十四孝図」より)

23 朱寿昌

朱寿昌(しゅ じゅしょう)は、宋代の天長人。七歳の時に、生母の劉氏は正室の嫉妬を買い、他家に嫁がされ、五十年間音信不通であった。神宗の時に朝廷で官吏として仕えていた時、彼は自らの血で『金剛経』を書き写し、四方に生母を探し求めた。どうにか居場所の手がかりをつかむと、彼は、官職を棄てて陝西まで生母を捜しに行き、相まみえるまでは永遠に戻らないと決心した。ついに、陝州で生母と二人の弟に出会い、母子ともに喜び、一緒に帰った。このとき、母親はすでに70歳を過ぎていた。

黄庭堅・「二十四孝図」より)

24 黄庭堅

黄庭堅(こう ていけん)は、北宋分寧(現在の江西修水)の人で、又の名を山谷と言った。著名な詩人、書道家でもあった。その身分は高かったものの、母親には孝行と誠を尽くした。毎晩、自ら母親のオマルを洗い、一日として息子としての職責を忘れることはなかった。

(完)

(編集・瀬戸)