≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(15) 「苦難の逃避行」

苦難の逃避行

 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。

 ここ数日、団長は一軒一軒回り、何か聞いてはノートに書き取っていました。そして、いつでも命令があればすぐに出発できるよう準備しておくよう、伝えました。ある日の夜、飛行機が開拓団本部の上空を飛んで行くのが見え、照明弾も見かけました。

 母は、私と弟たちの服に「お守り」を縫い付けてくれました。それは、日本を発つ前に祖母が神社でもらってきたものです。母は、大切な物を全部リュックに入れ、私たちにはわざわざ、紐付きの柔らかいゴム底の靴と、簡単な荷物と着替えの服、それに、途中の食べ物も用意してくれました。荷物は開拓団のトラックが運んでくれることになっていました。母はさらに、水筒二つと夜道を照らす懐中電灯も用意しました。

 しかし、母はもう妊娠六ヶ月なので、そんなにたくさんの荷物を持ち、幼い弟たちの面倒を見るのは、本当に大変でした。そこで私は、母と相談して、荷物を分けることにしました。私が小さなかばんを一つ背負い、一番上の弟の「一」の手を引き、水筒を一つ背負うことにしました。母のほうは、一番下の弟「力」を背負い、二番目の弟「輝」の手を引き、さらに、大切なリュックを手に持たなければなりませんでした。

 私たちがちょうど相談しているとき、誰かが訪ねてきて、今晩命令があるかもしれないので、いつでも集合して出発できるよう準備しておくことと伝えました。母は私たちに、集合のときには起こすから、今のうちにちゃんと服を着てから寝ておくようにと言いました。

 家は子供が多く、弟たちは服を着るのに時間がかかるので、あらかじめ服を着てから寝るようにと言ったのです。ただ、母は寝るわけにもいかず、まだ忘れ物がないかどうか調べていました。そして、荷物が重すぎると思い、いくつか取り出しました。母は本当に大変だったので、私は手伝おうと思いましたが、どうしても睡魔には勝てず、いつの間にか寝てしまいました。

突然、誰かがドアの外で小声で

 

突然、誰かがドアの外で小声で、「急いで本部の中庭に集合」と言いました。私はぱっと飛び起き、母は弟たちを起こしながら、弟の力を背負いました。それから私に、急いで靴を履くように、靴紐は必ずしっかり締めておくようにと言いました。

 私は靴を履くと、自分のかばんを背負い、肩には水筒を一つ下げました。もう一つの水筒は一が背負いました。母は、力を背負い、肩にはかばんを掛けました。用意はできました。

 母は、私に一の手を引いて先に出るように言い、その後で、窓の鍵を全部掛けてあるか確認し、カーテンをきちんと閉めてから、輝の手を引いて家から出てきました。そして、玄関にも鍵を掛けました。(普段は、出かけるとき鍵は掛けませんでした。)

 母は私に、暗くて道がよく見えず、周りもよく見えないので、弟の手をしっかり引くように、そして、空いた右手でお母さんの服の裾をしっかり握って、決してお母さんからはぐれないようにと言いました。

 私たちが開拓団本部に来てみると、中庭にはすでに何人か来ていました。ただ、真っ暗で、その夜は月明かりもなかったので、男の人か女の人かも見分けがつきませんでした。

 中庭には次々に人が集まって来ました。石井団長がメガホンで小声で話し始めると、みんなは突然静かになりました。団長はみんなに、子供の面倒はちゃんと見るように、道を歩くとき大声を出さないように、そして、決して隊からはぐれないようにし、互いに面倒を見合うようにと言いました。

 そのとき私はまだ幼く、それが日本が戦争で敗れる前後の避けられない逃避行生活の始まりだということが分かりませんでした。私は人群れの中に立って、団長の話を聞いているうちに、胸がどきどきし、足が少し震えてきました。怖かったからか寒かったからかは分かりませんが。私は左手で一の手をしっかり握り、右手でお母さんの服の裾を力いっぱい引っ張りました。その後も団長は何か言っていましたが、全く耳に入りませんでした。

 

(続く)