≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(34)「引っ越し」

養父が去ってから

 ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。なぜなら、養父がいなくなると、かばってくれる人がいないので、養母がまたほしいままに私を叩くのではないかと恐れたからです。しかし、養父は仕事をしてお金を稼いで家族を養わなくてはいけないと言いました。

 養父は、少ししたら学校へ通わせてくれると慰めてくれました。私は学校へ行けると聞いて、とても嬉しくなりました。しかし、養母がまたそうはさせてくれないだろうと心配になりました。私の養父はあまりにも気だてが良すぎて、養母の反対を押し切ってこのことを決めることはできないだろうと、直感的に感じました。いわんや養父はまた家を離れるのです。

 しかし、養父は、必ず養母を説得すると私に言いました。もしかしたら、養父自身、養母の私に対するヒステリーの本当の恐ろしさをまだ十分にはわかっていないのかもしれません。養父はまた、私と養母の特別なのせいで、養母が私に容易に善の心を発することができず、私の入学が結局、とんでもない災難に遭うなどとは思ってもみなかったのでした。

 養父が去ってからも、養母は依然として毎日外出しました。何をしに行っているのか、私はたずねることはできませんでした。しかし、彼女は帰ってくるなり、ちょっと思い通りにならないとすぐに私に癇癪を起こしました。養父が去ってから、養母は私を折檻する際には、いつもドアに鍵を掛けるようになりました。

 ある日、養母が私を折檻しているときに、党智おじさんがちょうど外から戻って来ました。おじさんは、養母の家のドアが開かないとみると、何も言わず、突然ドアを蹴破りました。そして、部屋に入ってくるなり、私の手を掴んで、養母が罵るのも尻目に、趙おばさんのオンドルまで連れて行ってくれました。養母は部屋から出ることもなく、ただ下品なことを罵り続けていました。

 それから数日して、養母は突如として引っ越しを決めました。私はこのようにして、四世帯が同居する長屋を離れ、そして消息の分かっている唯一の弟・趙全有とも離れることになりました。引っ越しのその日、私は泣きました。私は、唯一の肉親との別れが本当に忍びなく、同じ長屋の趙おばさん、王おじさんたちと離れるのもとても辛く思いました。彼らは私が養母から折檻を受けたとき、随分かばってくれました。

 私は、近所の子供たちと別れるのも忍びなく思いました。彼らは私にとてもよくしてくれ、常に養母の目から逃れることができるよう、折檻されないようにと助けてくれていました。

 でも、引っ越してからは、完全に一人で恐ろしい養母と相対さなければならず、しかも一人の肉親もそばにいなくなると思うと、とても辛く、本当に想像もできませんでした。

 私たちは、道の北側の独立した長屋に移りました。私たちの移り住んだ長屋の中庭はとても大きく、周りにはきちんと整った壁と大門がありました。私たちが入った東棟以外は、すべて鎖が掛けられ、窓には板が打ちつけられ、中は見えませんでした。大家の主人はすでに夜逃げしたと聞きました。なぜ逃げたのか私には分りませんでした。ただ里の身内が時々来ては、ドアを開けて中に入っていました。

 私は養母に聞くことはできませんでした。私は生まれつき好奇心が旺盛で、生母にはあれこれと聞いていましたが、今養母の前に立つ私は、恐怖で慄然として立ち尽くし、とてもあれこれ尋ねたりできません。尋ねようものなら、養母の機嫌が悪ければすぐに殴られてしまうからです。

引っ越したところには

 

引っ越したところには、前のような小さな子供たちはいませんでした。しばらくは、私は弟や近所の子供たちのことを思いましたが、養母は事前に私に、「行ったら、あんたの足を圧し折るからね」と警告しました。

 私たちの家は西の間です。南のオンドルと北のオンドルと外の部屋があり、南北のオンドルには間仕切りの板がありました。北の部屋にはオンドルだけで、窓はなく、とても暗いものでした。外の部屋の北壁にも窓がなく、南側にドアがあるだけでした。南の部屋には大きなガラス窓があり大変奇麗でした。

 養母は、私を一人で北のオンドルに住まわせました。私は、暗くて陰気だと感じましたが、養母のそばに寝るよりはましでした。その部屋は小さく薄暗いものでしたが、私ひとりの場所でした。

 養母は養父より20歳あまり年下でした。私が養母の家に来てから、養父はしばしば不在で、一年に二、三度帰るだけで、しかも毎回数日しか家にいませんでした。

 養母は毎日のように出かけ、家にいることはあまりありませんでした。私たちが近所にほとんど人の住んでいない、塀に囲まれた長屋に引っ越して来て以来、養母は何も気にすることなく、勝手気ままに男の人を家に連れてきました。養母と連れてくる男の人は注射器のようなもので、腕に「茶色の水」を注射していました。後に、私はこれが「モルヒネ」であることを知りました。

 養母が連れてきた男の人は、年配の人もいれば、少し若い人もいましたが、最も頻繁に来ていたのは、「王喜杉」という中年の大柄の男性でした。彼はほとんど毎日のように来ては、養母の部屋にいりびたり、小さな鉄製の柄杓状のものに茶色の塊を入れ、そこに水を加えて、火で熱し、それを注射器に入れて、腕に注射していました。彼らの腕には毎日注射した後の黒々とした痕がたくさん残っていました。

 私は養母が連れて来た男の人については、一切何も聞きもせず、声も出しませんでした。私は養母とその男の人たちを出来るだけ避けていました。その人たちは養母と仲がいいので、私をかばってくれるはずがないと分かっていたからです。

 だから、家に人が来ると、私はいつも一人で北のオンドルの自分の部屋でじっとしていました。ただ、私の小さな薄暗い部屋は窓がなかったので、ドアを開けておかなければなりませんでした。オンドルの上には食糧や用済みのボロが山積みになっており、オンドルの端のほんのわずかなスペースが私の眠れるところで、そこに布団をしきました。そして、座るときには、毎回布団をくるくる巻いて足元に置いたのです。

(つづく)