≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(37)「二度目の引っ越し」

二度目の引っ越し

 ほどなくして、何が原因だったのか、養母が大家さんの親戚と喧嘩をしました。養母は、初めはただ口やかましく罵っているだけでしたが、後に手を出しました。その時、私は弟の煥国を背負って、部屋の中を掃除していました。すると、中庭で養母が誰かと喧嘩しているのが聞こえたので、外に出てみると、そこにはよくこの棟にやってきてドアを開けていた大家さんの親戚がいました。

 彼女は中年の婦人で、毎回私より少し年上の女の子を連れていました。しかし、今日は、その女の子を見てばつが悪いと感じました。養母のほうが悪いのですが、養母は理不尽の塊で、その子のお母さんと喧嘩をしてしまったのです。

 毎回、養母が外の人と喧嘩をした後は、私はその人たちにお詫びして謝りたいと思いました。しかし、養母の折檻が恐ろしく、なかなかお詫びのことばを切りだすことができませんでした。切りだす機会がなくなるにつれて、私は幼い心にますます罪悪感を感じ、顔を上げられないほどになりました。

 大家さんと喧嘩してから数日も経たないうちに、私の家はまた引っ越しました。今度は、沙蘭鎮北側の長安村の最北端で、北卡子門の近くの大地主の家です。このあたりの農村では裕福な大地主の家でした。

 この家の大家さんは王敬峰と言いました。長安村では最も裕福な大地主で、沙蘭鎮の王保長の身内だそうです。この家の主人は、日本の若い娘さんを妾にしていました。ところが、どんな噂を聞いたのか、一家全員が逃げてしまいました。結果、このように大きな家といろいろな家具類があるのに、かなり年のいったおばあさんが一人で留守番をしていました。

 私たちがここへ引っ越してきたのは数日の仮住まいのつもりで、新しい家が見つかったらまた引っ越していきます。私たちの元の家は、養母が大家さんと喧嘩した後、大家さんが家を取り上げて私たちに住まわせてくれなくなったので、やむなく仮住まいとしてここへ引っ越してきたのです。

 私たちが以前住んでいたところは、銃を持った人を見かけることはほとんどなかったのですが、この北卡子門の近くの場所では、銃を持った人が歩哨に立っているのを毎日のように見かけたし、夜になると、よく銃声を聞きました。当時はちょうど、共産党の八路軍と国民党の軍隊による国共内戦の時期だったし、土着の匪賊もいました。

 ある日、土匪の頭目の「馬喜山」が来たということで、その日の夜中に、外で銃声が聞こえ始めました。銃声は私たちの家の裏手の北卡子門一帯でしているようでした。

 養母は煥国を抱いてとっくにオンドルのの下に潜り込み、食卓を自分の頭上にもってきていました。養母は自分のことだけを考え、私を呼ぶどころか、逃げるようにも言いませんでした。私は急に、自分の身の安全を考えなければならないと思い、窓の下に這いつくばりました。こうすれば、弾が飛んできても安心でした。

 それ以来、どんな災難に遭おうとも、私は養母に聞くことはないし、養母に助けを求めることもなく、自分で自分の身を守ることを覚えたのでした。

 沙蘭鎮は、四方を山で囲まれた盆地でした。一本の小川が、西から東へと沙蘭鎮を流れ、牡丹江に繋がっていました。沙蘭鎮は、牡丹江河畔にある盆地で、この小川が沙蘭鎮を「河南」と「河北」の二つに分けていました。河南はまた東側と西側に分かれており、東側は「新富村」、西側は「治安村」といいました。河北もまた二つに分かれ、西側を「永明村」、東側を「長安村」と言いました。北卡子門は、河北の東寄りにありました。

(つづく)