≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(39)「あわや井戸の中へ」

私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。私の家は、西の端だったので、隣には家がなく、したがって中庭は大きなものでした。

 ここに引っ越してから、すぐに冬がやってきました。私は毎日のように、我が家からずいぶん離れた西のほとりにある井戸へ水を汲みに行かなければなりませんでした。一度に汲みすぎると運べないので、少しずつ、一日に何度も往復しなければなりませんでした。

 私が最も苦痛に感じたのは、タマゴ石溝開拓団の洋式の井戸と違って、ここの井戸には水を汲み上げるための設備もなければ、桶を引揚げるロープもなかったことです。それなのに、井戸は深く、井戸の口は円形で、その口は開けっぴろげになっており、そこには蓋もありませんでした。

 水を汲む人は、ロープをくくりつけた小さな桶を自分で持ってきて、水を汲み上げては大きな桶に移し、溜まったらそれを担いでいきました。ただ、冬になると、井戸口の周りは凍ってずいぶん小高くなった上、口がますます小さくなり、小さな桶が入らなくなることもありました。

 小さな桶を降ろして、深い井戸の中で桶に水を入れるとき、いつも苦労しました。慣れている人は、井戸の中に下ろしたロープを一振りすれば桶に水が一杯溜まりますが、私の場合は、何回も振ってもなかなか水が溜まりませんでした。

 それに、桶の水が多すぎると、重いし滑って上に引っ張り上げるのに苦労しましたし、少なすぎると、何度も汲み上げなければなりませんでした。

 また、井戸の口が凍って小さくなり、桶がやっと入るくらいのときには、水で一杯の桶を力いっぱい引っ張り揚げる際に、桶がとば口に引っかかってロープが切れ、桶が井戸の底に落ちてしまうことがありました。そうなると、養母に見つからないように、こっそりとカギ型の引っ掛け具の付いた道具を借りて引き揚げなければなりませんでした。

 そういうときは、私はよく前の棟の王冬蘭の家にその道具を借りに行きました。王冬蘭は私と同じ年で、彼女の家には何でもありました。彼女の家の引っ掛け具の付いた道具は使いやすかったのですが、それでも、桶を引き揚げるのは時間がかかり、いつまでも引き揚げられないと、養母に怒られ殴られました。

 冬場、凍ってずいぶん小高くなった井戸口で水を汲む際、しばらく立っていると、靴が氷に張り付いてしまいます。ですから、水を汲み上げて足を動かそうとすると、足が靴から脱げて裸足で氷の上を踏むことになります。そうなると、足が凍って感覚がなくなってしまいます。

 どうにか水を汲み上げても、今度は下に下ろすのが大変です。うっかりすると、小高くなった井戸口から滑り転げてしまいます。そうなると、痛いだけでなく、せっかく汲み上げた桶の水が全部ひっくり返ってしまい、水しぶきがかかって全身凍てついてしまいます。さらに、もちろん、再び井戸口に上がって水を汲みなおさなければなりませんでした。

私は毎日このような重労働を繰り返しましたが

 

私は毎日このような重労働を繰り返しましたが、神様は幸いにも私に強健な体を与えてくれていました。そのような厳寒で困難な環境にあっても、その数年の間、冬場穿く靴下がなく、毎日素足で過ごしても、凍傷にかかることもなく、また風邪やその他の病気にかかることもありませんでした。

 この井戸で、私はもう少しで命を落としそうになったことがあります。それはとても寒い冬の日でした。井戸の周りは凍って小高くなり、滑りやすくなっていました。私は十分気をつけてロープをきつく縛りつけると、井戸口のに立って水を汲み始めました。

 ところが、水桶が井戸のとば口まで上がって来ると、凍てついて小さくなった井戸の口で桶が引っかかってしまいました。力を入れて引き上げると、桶の片方の取っ手がはずれて桶が井戸に落ちてしまいました。

 私は急ぐと同時に怖くなり、どうにかして桶を引き揚げようとするのですが、どうにもうまくいきません。日は刻々と暮れていき、私は焦って泣きながら努力しました。神様にも、桶を引き揚げることができて、養母に殴られることがありませんようにとお祈りしました。

 続けているうちに、カギの付いた引き揚げ具に手応えを感じました。私はすぐにやったと思い、喜んで引っ張りあげました。ところが、桶がいくつも引っかかっているようで、普段よりも何倍も重く感じました。私は全身の力を振り絞って引っ張り、どうにか上まで引っ張り上げました。桶がいくつ引っかかっているのか見えませんでしたが、とにかく井戸の口まで上がって来たのだから、ここで手を放すわけにはいきません。

 そこで、やむを得ず井戸の口に近づいて、腰をかがめて右手を伸ばし、引っ掛け具のカギを掴み、左手でロープを引っ張りました。ところが、カギがあまりにも重くて、足が滑って転んでしまい、左手に持ったロープが井戸の中へ滑って落ちてしまいました。

 その弾みで、私の足は井戸の上で横倒しになりましたが、幸い頭が井戸の縁のほうへ倒れ、そのまま体ごと縁へ滑り落ちました。頭を強く打って痛かったのですが、幸い井戸の中に落ちずにすみました。

 私は、後になっていっそう怖くなりました。万が一、あのとき井戸の中に落ちていたら、深いし冷たいし、それに日が刻々と暮れていたので、誰も水汲みになど来ません。私は井戸の中で凍え死んでいたに違いありません。

 私は九死に一生を得、本当に命拾いをしました。その数年間、命にかかわるようなことが起きなかったのは、本当に不幸中の幸いでした。

(つづく)