≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(56)

【大紀元日本1月7日】

 により謝家に身を寄せて

 1951年の春、養母は閻家後屯に新しく作られた村に引っ越す準備にとりかかり、私は向かいの謝家にあずけられました。私が謝家に住まうことができたのは、閻家後屯の趙家が私をトンヤンシーとして買っており、私はすでに趙家の人間になっていたからです。だから、趙家が私の食い扶持を謝家に払っていたのでした。

 もちろん、当時の私はそれが養母の按配によってそうなったのだなどとは露ほどにも思いませんでした。ただ、どこで住もうが、養母と一緒に住むよりはずっとましだとわかっていました。

 養母が引っ越した後、私は謝家にやって来ました。謝家は家族が少なくありませんでした。おじいさんはかなり年齢がいっていましたが、家で畑をやっているほか、街で靴の修理をしていました。だから、皆はおじいさんのことを親しみを込めて「靴屋の謝さん」と呼んでいました。

 家のことは全部、謝おばあさんが仕切っていました。彼女は、河北省関内の出身でした。謝おばあさんはいろいろなことができる人で、家に畑があるほかに、小川の南岸では野菜を作り、その他、豚や鶏を飼い、さらにはロバ2頭と牛2頭も飼っていました。

 謝おばあさんには5人の子供がありました。一番上は男でしたが、口がきけませんでした。おばあさんはこの長男に李素珍という嫁をもらいました。李素珍もトンヤンシーで、初めはそんなことは知らなかったそうです。謝おばあさんは、長男に続いて4人の女の子を生みました。長女は謝雨芬、次女は謝雨芳、三女は謝雨蘭、四女は謝雨琴といいました。私がその家にやって来たとき、四女だけが未婚で、その他の娘たちはみんな結婚して家を出ていました。

 長女の婿は鐘玉恵といい、沙蘭鎮の町で自分の店をもっていました。太っていたので、皆は彼のことを親しみを込めて「太っちょ」と呼んでいました。彼らには子供がなく、鐘秀英という女の子を養子にもらって育てていました。彼女は私より2つ年上でした。

 次女の婿は汪景華といい、沙蘭鎮の小売販売会社の会計係でした。その家は子供が多く、私が謝家にやって来たときにすでに、子供が三人いました。

 三女の婿は潘玉麟といい、綏陽鎮の小売販売会社の会計係でした。彼らはよその土地に住んでいたので、沙蘭鎮の生家へ戻るのはごく稀でした。

 四女の謝雨芳は年頃の娘でした。勉強があまりできなくて、小学校卒業後、中学校に受からず、しばらく家でぶらぶらしていました。その後、蜜山師範学校に勉強に行きました。

 謝家の三人の娘は嫁いでいて家にはいなかったのに、家の仕事はとても多く、いくらやっても追いつきませんでした。私は毎日早く起きて畑に出ては野菜を取り入れ、おじいさんがそれを町へ売りに行きました。私のほうはその後家に帰って、長男のお嫁さんを手伝って朝食を作りました。さらに豚や鶏の世話までしました。それらの仕事を全部やり終えてからやっと、学校に行くことができるのでした。

 毎日学校から帰ってくると、私は豚や鶏のえさまで用意しました。要するに、農家では年がら年中忙しく、暇なときなどありませんでした。自ずと、私が毎日最も多く接するのは、謝おばあさんと長男の嫁の李素珍になりました。

  (続く)