≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(57)

【大紀元日本1月23日】時間が経つにつれて、私は謝おばあさんが李素珍おばさんに大変厳しい目を向けているのに気が付きました。李素珍おばさんには懇意にしている人がいて、呉亜洲といいました。遼寧省・奉天の人で、口が達者でした。年はおばさんよりかなり上でしたが、若く見えました。私たちは呉おじさんと呼んでいました。

 呉おじさんの家は子供が多く、生活が大変で、よく謝家に食料を借りに来ていました。私は時々、李おばさんがこっそり呉おじさんに食料を分け与えているのを見かけました。

 ある日の晩、呉おじさんと李おばさんが倉庫にいるところを、李おばさんの夫で口のきけないおじさんに見られました。おじさんは怒って「あーあー」としきりに叫び、両手で手まねをすると、オンドルに上がって眠ってしまいました。謝おばあさんは、李おばさんをおじさんが眠っているオンドルの下に跪かせ、おじさんが目を覚ますまで許しませんでした。

 それ以来、謝おばあさんはおばさんにますます厳しくなったのですが、おばさんのほうはますます不満が鬱積して、ついには謝おばあさんの言うことを聴かなくなり、呉おじさんとの往来がいっそう密接になっていきました。

 謝おばあさんは、四女の謝雨琴に対してもかなり厳しく管理していました。雨琴は、上のお姉さんの婿・鐘玉恵おじさんの家の隣に住んでいる裴家の次男・裴慶安に恋心を抱いていました。彼は寧安高校の三年生で、雨琴は彼と結婚したいと思っていました。

 ところが、謝おばあさんはけんもほろろに反対し、それで雨琴は思い切って裴慶安と駆け落ちをして出て行きました。

 謝おばあさんはそのことを聞くと、すぐに私を同行させ、彼女たちを追いかけて連れ戻そうとしました。すでに夜も更けており、冬でもあったので、外は底冷えして地面は凍っていました。しかし謝おばあさんは、雨琴をぜひとも連れ戻さなくてはと考え、私を同行させて出発しました。

 私たち二人は、沙蘭鎮の東から出発すると、真っ直ぐに東京の駅へと歩いて行きました。冬の深夜で、空に月の光はなく、何も見えず、ただ道に沿って歩くしかありませんでした。謝おばあさんはもうかなりの高齢で、歩くのもままならず、私はおばあさんに肩を貸しながらゆっくりと歩いて行きました。

 どれくらい歩いたのかも知れず、東京の町まであとどれくらいあるのかも分からず、しかも、東京の町に着いても雨琴が見つかるかどうかも分かりませんでした。

 私は、謝おばあさんが意気消沈して疲れているのを見て、家に戻るよう勧めたところ、おばあさんも気が萎えてそれ以上追いかけるのをやめました。

 しばらくして、次女と三女も追いかけてきて、謝おばあさんに四女の雨琴の結婚にはこれ以上干渉しないよう勧めたので、この件はそれで収まりました。

 私は、謝おばあさんはとても頑固だと感じていたので、彼女のことを少し怖いと思っていました。それゆえ、何かするよう言われると、あらを捜し出して叱られることのないよう、最善を尽くしました。

 また時には、次女の嫁ぎ先の汪景華おじさんの家に行って、子供の面倒を見たり、服や布団を洗ったりしなければなりませんでした。幸い、私は養母の家にいたときに、子供を背負いながら仕事をすることに慣れており、しかも体力もかなりついていたので、疲れを感じませんでした。

 日曜日になると、学校がなかったので、長女の嫁ぎ先の鐘玉惠おじさんの家に行って、洗濯をしたり、商店のガラスを拭いたり、カウンターを掃除したりなどしました。総じて、呼ばれればいつでもそれに応じ、決して恨み言は言いませんでした。当時私は負けず嫌いで、人からダメだと言われたくありませんでした。

 私は毎日のように謝家の家事に奔走していましたが、それでも学校では種々の文芸活動に積極的に参加しました。私は、幼い時から踊るのが好きだったので、同級生を組織して、創作ダンスを踊ったり、童話のお話で動物の劇を演じたりなどしました。

 当時は、間もなく災難がやってくるなどとは思いもよりませんでした。

  (続く)