≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(82)

帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。養母は頑なに巫女に頼んで、毎日お札を煎じて飲ませていたようだが、あんなものが薬になるかい?元気な人だって死んでしまうよ。本当に惜しい人を亡くしたもんだなぁ」

 李興忠おじさんは、養母にも福がないと言いました。「こんなに良く手伝いをする息子にむざむざ死なれるなんて。全有は成長したら、きっと養母に孝行を尽くしただろうに。全有はたいへんに物分りが良く、養母に本当によくしていたのに。休暇期間には帰ってきて、いつも家で養母の手伝いをあれこれとしていたのをよく見かけたよ」

 私たちが家に帰ってみると、趙おばさんが一人オンドルの上にぽつんと坐っていて、家の中はがらんとしてひっそりと静まり返っていました。オンドルの上には、弟が使っていた布団が積み上げられていました。あの白い敷き布団が今は黒ずんでおり、黒い点々のしみが方々に着いていました。私は黒く汚れている敷き布団を見て本当に心苦しくなりました。

 私は幼くして中国人の家に預けられて以来、その家の人の服や布団を何度洗ったことか。でも、弟のものは一度も洗ってあげられませんでした。弟は病気になって動くこともできず、自分で洗うこともできず、布団が真っ黒になっていたのです。この数カ月間どれほど辛い思いをしたことか、かわいそうでなりません。

 あの黒い水だって、まったく人の飲むことができるようなものではないのに、弟は我慢して数カ月間飲み続けたのでした。その結果、全身力尽き、骨と皮ばかりに痩せ細って、しまいには二度と帰らぬ人となってしまいました。

 弟は自分がもうだめなのを知っていたのかもしれません。だから、最後に一目私に会って、9年間の積もり積もった話をしようと思い、私を呼ぶよう、養母に頼んだのかもしれません。弟が今日まで頑張ってこれたのも、私に会うためだったに違いありません。さもなくば、彼はとっくに逝ってしまっていたはずです。

 私は弟の側にやって来ましたが、多くを話すこともできずに、彼をじっくり眺めることもできず、わずか一時間余りで息を引き取ってしまいました。私は悲痛の余り絶望的になり、理性で自己を抑えられなくなりました。それで、いたたまれなくなり、外に出て、誰もいない所で大声で泣き叫びたいと思いました。

 張小禄おじさんは、私が外へ出て行くのを見ると、私を掴まえて、今晩はおばさんに付き添うようにと言いました。私はそれを聞き入れ、部屋に戻り、オンドルの上に座りました。

 皆が帰った後、趙おばさんと私は眠れませんでした。

 私は呆然とそこに座り、何も話すことができませんでした。趙おばさんのほうは私に、何やらぶつぶつ話しかけ始めました。

 「自分の運命はなんと過酷なことか。自分は11人の子供をもうけたが、みんなわずか数歳か十数歳で死んでしまった。最後に兄弟の多い全有を養子として引き取ったのに、この子もなくなってしまった」

 趙おばさんによると、彼女の長女は二十歳で結婚したものの、結婚してから一年もしないうちに死んでしまったのでした。彼女の話では、全有を含めて12人の子供は皆が性格が良くまた聞き分けも良かったのに、惜しいことに生きていけなかったのでした。

 (続く)