≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(88) (第一部完)

文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。しかし、寧安一中の教師の中には、王建先生を槍玉にあげて壁新聞を書き、「階級的な立場に問題がある」と批判し、「日本の残留孤児が一等奨学金を受けるのを承認した」として、彼のことを親日派、日本の犬などと言ったのでした。

 私はその話を聞くと、日曜日の学校に人が少ない時に、わざわざ一人で寧安一中まで壁新聞を見に行きました。校舎の中に入ると、廊下の両側の目立つ所に、賈子輝先生が書いた壁新聞が掲げられていました。王建先生を批判するとともに、私のことを日本皇軍の後代だと侮辱していたのです。

 当時、私も日常的に、学生や同僚たちから吊るしあげられていたので、これに類すること、あるいはこれよりもっと酷くて辛辣な批判には、すっかり慣れており、辛くも悲しくもありませんでしたが、ただ王校長にだけは申し訳ないと思いました。

 当時、王校長は、私が中国の子供と同じように平等に奨学金を受けられるように考えてくれ、そして、私が学校に入れるよう、あれこれと配慮してくれたのは、私が後点xun_タ定した仕事に就くことができるようにと考えたからです。

 先生はかつて私に、師範専門学校に進学するべきで、他に選択肢はないと提案してくれました。それは今でも忘れることのできない、王校長の私に対する最後の教えでした。ほどなく、王先生は異動して、寧安県教育局の局長になりました。

 私たちが高校に上がった後の冬休み、全県の小中学校の教師たちが安寧に集まり、その時のいわゆる「党整風(党による思想の点検)」を手伝いました。この休暇期間に、先生たちは毎日会を開いて、「鳴放(主に知識人が党と政府に対して不満や提案を提出すること)」を学んでいました。

 寧安一中の学生寮も、各地から来た先生たちでいっぱいになりました。教室も毎日グループに分かれて会議、討論などをしており、その年の冬休みは最も長く感じられました。先生たちはみな緊迫して、厳粛な様子でした。学校に泊まっていた先生たちは、食堂で学生たちに会っても、以前のように声をかけたりあれこれと尋ねたりしませんでした。まるで、とても学生のことなどかまっておられないかのようであり、自分の身に今にも火の粉が降りかかって来そうだったのです。

 私を含め、休みになっても帰る家のない居残りの学生たちは、歴史を教えていた柏静徳先生が宿舎で逮捕されるのを、自身の目でしっかりと目撃しました。理由は、先生が教える真実の歴史が、共産党の歴史観と合致しなかったためです。

 これ以降、中国人の子供たちは、真実の中国の歴史に触れることができなくなり、また伝統的な文化は捻じ曲げられ、嘲笑われ、さらには、本当のことを言う教師は一人また一人と姿を消して行きました。

 三年一組のクラス担任をしていた張宏先生も逮捕されました。この休暇期間中に、多くの先生たちが「右派」のレッテルを貼られ、教師としての資格を剥奪されました。後任として来た秦振謦校長までもが、「右派」として攻撃されたのです。

 これは、私が中国で初めて目にした、知識人の受ける中国共産党による政治運動の迫害でした。

 しかし、当時、私はまだ高校生で、「中国共産党による政治」の残酷さを身をもって体験したことはなく、十分に理解もしていませんでした。それは人の魂を奴隷化し、中国の伝統文化と道徳を壊滅させる血腥い嵐だったのです。

 後に、自身が成長する過程で自分で経験することによって、だんだんと中国共産党による政治運動の恐怖が分かるようになりました。特に、自身の出身が良くないという「政治的な背景」があったため、私は常に用心深く、できるだけ自身を守ることを学ばざるを得ませんでした。当時の人間性と肉体に対する蹂躙は、全く息苦しく、想像すら難しいものでした。

第一部~「苦難の中国大陸(仮題)」完

【編者注】2008年1月1日にスタートした本連載も、第(88)話をもって、第一部終了となります。長らくのご愛読、ありがとうございました。第二部は、しばらく休止時間をいただいてからの連載開始となります。