中国共産党の「党文化」コンプレックス 

【大紀元日本7月5日】ワシントンDCが誇る文化施設の1つ、ジョン・F・ケネディ芸術センター。そのオペラハウスの入り口に、ケネディ元大統領の頭像が飾られている。「芸術は民族の意志を妨害し断絶させるものでは決してない。むしろ、その意志に付き添うものであるべきで、その民族の文明水準を計る指標となる」と元大統領の言葉が刻まれている。

このケネディ芸術センターで、神韻芸術団のステージが繰り広げられていた。そのステージで得た愉しさと、心の濁りが洗い落とされる悦びは、ケネディの「芸術は民族の文明水準を計る指標」という言葉と重ね合わさり、共感が共鳴へと増幅する。

近年中国大陸が出品した巨大スケールの映画の豪奢な場面は、貧弱な文化的価値を覆い隠すことができない。海外のステージで上演される大陸の演劇や歌も、言葉の壁を突き破る力を欠き、雑技団の公演も芸術というより「芸」に過ぎない。数々の中共の「文化」輸出は観衆の心を動かすことができず、中国文化の真髄を語ることも到底できない。

しかし、神韻は違う。「心と魂の洗礼だ」と神韻公演を称えたのは、08年米大統領選挙の民主党大統領候補、デニス・J・クシニチ議員。「この公演はあらゆる面で驚嘆に値する芸術であり、それによって得た感動を表現する言葉に窮します。神韻芸術団の舞踊、芸術性、音楽、演出のすべては、私たちに啓発を与えてくれ、私たちの心と魂を洗礼してくれました。(中略)神韻の傑出した演出とアーティストたちは、私たちの精神世界を向上させてくれます」と感動を熱く語った。

神韻公演が持つ、魂に届く力は、大陸のほかの公演で得ることはできない。それは決して大陸の芸術家が劣るためではない。むしろその逆で、神韻芸術団の芸術家の多くも大陸出身である。大陸の「芸術」は、中国共産党の価値観を反映した文化(以下、党文化)を根底とする審査体制により、芸術の持つ世俗を超越した美しさが失われている。そのため、中国の正統文化は、中国の芸術家たちが海外の自由な空気の下で築き直すしかない。

正常な政府は、民間による文化復興の努力やその成功に面したとき、それを称え、時に自らを反省するが、中国共産党は反対に、復興した文化を摘み取ろうとし、抑圧に死力を尽くしている。

神韻公演が開催される世界各地の劇場に最近、法輪功学習者を名乗るメールが届いている。メールの発信者は法輪功学習者に成り済まし、常識はずれな言動で法輪功のイメージをおとしめ、それにより神韻公演を妨害しようとしている。

こんな卑劣な行為を組織的に行う動機と力を持つのは、前科満載の中国共産党にほかならない。神韻を妨害する手口をかつて9つに纏めたことがあるが、それにまたいくつか加わったようだ。団員の移動バスを故障させる、チケット代金を盗む、電話ホットラインを妨害する、劇場に圧力をかける、観衆を名乗りクレームを付けるなど、彼らの手口は陰険さを極める。

卑劣な行為から、中共の恐怖心とコンプレックスが見え隠れする。彼らが恐れているのは、世界各地で神韻公演が行われることによって、法輪功への誹謗中傷が暴かれ、また、党文化の低俗さと醜悪さが曝け出されること。彼らのコンプレックスとは、彼らにはどうしても神韻と「観衆を魅了する」ステージが作れないことである。

中国共産党は自由を恐れる。自由な思想、自由な報道、自由な競争、すべての自由に彼らは戦々恐々としている。中共の党文化の宣伝は、不利な情報を封鎖することによって行われており、党文化を演じるステージも競争相手を暴力で封じ込めることにより、閉鎖的な環境で露命をつなぐ。彼らの行動はまさに、党文化に対する自らのコンプレックスを露呈した。否定するなら、神韻を大陸に招き、観衆に評価してもらおうではないか。

(翻訳編集・張YH)