英国バイリンガル子育て奮闘記(68)ネットがもたらしたクラスメート (2000年 秋以降)

【大紀元日本1月3日】娘が中学に上がったころだったと思う。都会の家族が越してきた。人材派遣会社を経営していて、英国内に2つも3つも家を持っているようだった。一番好きな家に住もうと思い立ち、眺めの良いコーンウォ―ルの別荘に移り住んできたそうだ。

上の子のヘレナ(仮名)が中学で娘と同じクラスになった。下の子は小学生。中学での初日に「誰も口をきいてくれなかった」とヘレナに言われ、罪悪感にさいなまれたと母親が語っていた。でも、すぐヘレナも皆と溶け込んだ。理知的な美人で、前の学校ではラテン語があったとかで、娘の日本語同様、授業は受けずに自主的に外部試験を受けていた。言葉の感覚に長けた子だった。

インターネットのおかげで、事務所は信頼できるスタッフに任せて、カメラで話し合いながら遠方からの会社経営が可能になったという。時々ロンドンからちょっと北上した街の事務所に顔を出しているようだった。

ネットのおかげで移り住んできたのはヘレナの家族だけではない。なんとアメリカ人の家族もやってきた。セーラの父親は卸売業。録音関連の資材を扱っているようだった。英国の業者から仕事の依頼が来た時、別にロンドンに住む必要はないので、ホリデーで来たことのあるコーンウォールに住むことにしたという。

最初、セーラは自分のアメリカ訛りの英語のため、受け入れてもらえるか心配していたようすだった。しかし、香港からのクラスメートに素敵なネックレスをもらってしまい、ほかの女の子に「どうしよう」と相談したりして、クラスの女の子たちにとって欠かせない存在となったようだ。彼女の家でのホームパーティに娘も呼ばれ、映画で見るようなアメリカの世界だったようで、結構興奮して帰ってきていた。

残念ながら、会社との契約に不備があり、一年でアメリカに戻ってしまった。帰る寸前にお母さんとお茶をして、もっと前から交際していればよかったのに、とお互いに悔やんだ。長女のセーラはクラスに溶け込んだが、下の子二人はクラスに馴染めなかったとか。コンピュータが壊れた時、誰に連絡すればいいかなど、都会から来ると戸惑うことばかりで、かなり不便を感じていたそうだ。

コーンウォールでは、気心の知れた人とは20年、30年がかりでつきあって信頼を勝ち取っていく。そして、一度地元のネットワークに入れば、お金は二の次で面倒見がよい。しかし、よそ者に対しては警戒するところがある。ネットで仕事ができても、地元の一員にはすぐにはなれないということだろうか。

(続く)

 著者プロフィール:

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。