嵐のあとの古都の風

【大紀元日本7月3日】鎌倉駅を出て、大勢の人の流れとは異なる方向に歩いた。6月の鎌倉は、あじさいで埋まる。鎌倉のあじさいの名所といえば、北鎌倉の明月院のほか、江ノ電でさらに西へ向かった長谷寺、成就院などがあるが、正直、この時期は花よりも人のほうが多くて、早朝でもない限り、落ち着いた花見はできない。

1年ぶりの鎌倉を訪れたのは6月20日。その前夜に、日本を串刺しにするように進んだ台風4号が首都圏を直撃したため、いたるところに木の葉や枝が散乱していた。

歩いたのは、鎌倉駅からみて東側に位置する古刹のいくつかである。建長寺のような大寺はない。そのため観光客はいたって少ないが、いずれも中世から続く寺院であり、その静かなたたずまいが、なかなかいい。

報国寺という禅寺があった。創建は建武元年(1334年)という。その前年は、新田義貞による鎌倉攻めの年である。『太平記』によれば、義貞が稲村ガ崎の波間に太刀を投じて祈願すると、潮が引いた。そこを新田軍が打ち破って鎌倉市内になだれこんだという。

その文学的描写を史実とみるには無理がある。ただ、東勝寺に逃げ込んだ北条一族の自刃のありさまと、討幕軍に攻め込まれた鎌倉市街が、酸鼻を極める地獄絵であったことは想像に難くない。約150年続いた鎌倉幕府は、ここに滅亡する。

報国寺は今日、竹の寺として知られる。本堂の裏には見事な孟宗竹の庭があり、昼でも薄暗いその空間には、初夏の暑さも忘れる爽やかな風が吹き抜けていた。

昨夜の雨の残り気が、青竹の香りと相まって、ほどよい心地よさで匂っている。

しかも竹林は、何とも不思議な世界をつくる。熊や鹿がいる森とはちがって、竹林には、高度な哲学をもちながら世俗を離れて隠れ住む高士が存在するように感じるのだ。こうして庭の竹林を眺めていても、誰かがこちらを透徹した目で見ているような気がして、興味深い。

竹林の七賢(ちくりんのしちけん)という言葉がある。3世紀の中国、時代でいうと魏呉蜀の三国時代になるが、その一つである魏に、世俗を離れた竹林のなかで酒を飲み、清談を交わした7人の人士がいたという。名を挙げれば、阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎の7人である。

彼らを「隠者」と呼ぶのは、おそらく適切ではないだろう。むしろ現実の社会のなかにあって官職につき、なかには山濤や王戎のように宰相格の高位にまで昇ったものもいる。その意味で、彼らはまさしく世俗のなかにいたのであって、深山に隠れたわけではない。

想像すべきは、なぜこの時代に彼らが徹底して泥酔し、神仙を談じ、俗世間に背を向けるポーズをとったかということなのだ。

時は乱世である。戦乱の乱世という意味もあるが、それ以上に、人倫のありかたにおいての乱世であったといったほうがよいだろう。そのような時代において、人間関係の上下秩序を道徳として敷衍させ、社会の理想とする儒教は、きわめて形骸化しやすいのである。

仁義礼智を説く儒教の徒が、実際には偽善と詐術に染まりきっていた。そのような中、まともな感覚をかろうじて保持していた文人はどう生きればいいのか。

政敵の讒言ひとつで死罪に処せられた当時、正面から政治批判などすれば即座に命取りとなる。では、どうするか。一つには、染物がめのなかに自らも落ちて、良心と引き換えにその色に染まること。もう一つは、ある種の「狂」となり、徹底して超俗的な姿勢をとることで世俗の側にあきらめさせることである。

竹林の七賢は、おおむね後者の方法をとった。それは彼らの処世術であり、また命がけの抵抗でもあったが、それでも嵆康は処刑された。中国で文人として生きることは、ときに武人以上の危険に遭遇する覚悟がいる。

中国ほどではないだろうが、我が国の中世という時代にも、幾分それに近い空気があったようだ。

先述のように、報国寺が創建された建武元年は、鎌倉が戦火に焼き尽くされて間もなくである。足利尊氏の建武の新政はその2年後からなので、ちょうどこの時期は、鎌倉時代と室町時代の狭間にあたることになる。どの時代にも庶民は誠実に働き、日々を懸命に生きていただろうが、寺社も仏像も焼かれて荒廃した風景というのは、なにより重苦しいものであったに違いない。

老樹ではないので、現在の竹林が、その時代を見つめていたわけではもちろんない。ただ、台風のあとの古都に香る風が、そんなとりとめもない想像をさせただけである。

 (牧)