米国で体操の女王を育てた華人監督

【大紀元日本8月23日】米国のダグラスさん(16)は8月2日、ロンドンオリンピックで女子体操個人総合のチャンピオンになった。想像できないほどのパワーとテクニックを駆使し、初出場にして体操の新女王に輝いた。試合終了後、彼女と抱き合って喜んだのは、監督の喬良さんだった。

中国から米国へ渡った喬良監督

1968年生まれの喬良さんは、5歳から北京西城体育学校で体操を始めた。1989年世界体操選手権男子団体で銅メダル、1990年ワールドカップ(ドイツ)個人総合で金メダルを獲得した。1991年、彼は中国国家体操チームの副隊長を辞退して米国に渡り、アイオワ州立大学で英語を学びながら大学の男子体操チームの監督補佐を務めた。言葉が通じないため、彼は身振り手振りで学生たちに体操のテクニックを教えた。その教えが功を奏し、1年後にはアイオワ州立大学男子体操チームから、5人の学生が米国国家体操チームに抜擢された。この実績が認められ、彼はアイオワ州立大学女子体操チームの監督に迎えられた。

正式な監督就任後、喬さんは世界一流の体操選手を育成するためには、もっと幼い子どもから教えなければならないと考えた。もと体操選手の妻と相談し、自分たちの体操学校を設立しようと、1998年、アイオワ州デモイン市の郊外に小さな倉庫を改造した自分の体操訓練学校を開設。5年後、この学校は4万平方メートルの敷地に二つの体育館が建つ大きな施設へと成長した。

ゼロから育った金メダリスト

ショーン・ジョンソンさんは、米国アイオワ州デモイン出身の女子体操選手。2007年の全米選手権では、個人総合、種目別床運動、平均台ともに1位を獲得した。同年の世界体操競技選手権、翌年の同大会では個人総合と種目別床運動で1位を獲得。2008年の北京オリンピックでは、団体と個人総合および種目別床運動で銀メダル、平均台で金メダルを獲得した。彼女は自分の体操服に喬良監督の名前を刺繍している。ショーンさんは喬良監督がゼロから育てた女子体操の金メダリストだ。

彼女が初めて監督に会ったのは、6歳の時。その頃、両親はとても腕白な彼女に手を焼いていた。「この子と他の子供との最大の違いは、元気すぎることです。一日中走り回っています」と、両親は監督に訴えた。彼は、当時の状況を思い出して、「彼女には体操の基礎は全くなく、ただ元気いっぱいに体操器具の上で遊んでいただけですが、私は彼女のこの点が気に入りました」と語る。

この腕白な少女は10年後、15歳の時に世界体操の金メダリストに成長した。その間の苦楽は2人にしか分からない。ショーンさんは監督について次のように語った。「喬良監督は私にとって父のような存在。いつも体操の訓練を楽しませてくれ、私は喜んで訓練に取り組むことが出来ました」

世界の体操女王を育てた

今年のロンドンオリンピックでは、喬良監督が育てたダグラス選手が、女子体操で個人総合チャンピオンを勝ち取った。彼は、もう一つ大きな夢を実現させた。

ダグラスさんは幼い時から体操が好きだった。9歳の時、彼女は米国の州の体操チャンピオンになった。しかし、彼女の飛躍的な成長は、喬良監督の指導を受けてからのことだ。

2008年、北京オリンピックのテレビ放送を見ていた時、ダグラスさんは喬監督がショーン選手と抱き合って励ます画像に感動した。「私も、この監督のところに行きたい」。2010年10月、14歳のダグラスさんは、東海岸の地元から数千キロ離れた中西部のアイオワ州にまで監督を訪ねたのである。

当時、喬良監督は、彼女はすでに最適の年齢を逃していると率直に言った。しかし、監督からのある高難度な跳馬動作を15分間で習得した彼女の驚異的な素質に彼の心が動いた。

1年後、15歳のダグラスさんは、東京で開催された世界選手権団体でチャンピオンとなり、種目別平行棒では5位を獲得した。更に1年後の今年6月、全米選手権大会では僅か0.2点差の総合2位を獲得。7月初めのオリンピック選抜試合でトップとなった。

僅か2年の間に、彼女は飛躍的に成長した。成長の秘密を聞かれた彼女は「喬監督は私をすばらしい選手に育ててくれました。監督は体力や技術だけでなく、私の心も強くしてくれました。オリンピックのチャンピオンになれたのは、夢のようです」と語った。

 (翻訳編集・東山)