百年後の白百合

【大紀元日本9月17日】「こんな夢を見た」で始まる夏目漱石の『夢十夜』。その第一夜で、臨終をむかえようとする女は、それを見つめる男に、こう告げます。

 「百年、私の墓のそばに坐って待っていてください。きっと逢いに来ますから」

 男は、死んだ女が言い残したように、真珠貝をつかって庭に穴を掘り、そこへ女の亡骸を入れてから、星の破片を墓標に立てます。そして墓のそばへ坐り、じっと待ちました。

 太陽が、数え切れないほど何回も昇り、また沈みました。百年たったら逢いにくる、と言っていた女。しかし待ち続ける男の心には、女の言葉は嘘ではなかったか、という疑念さえ生まれるのです。

 そんな時、男に向かって、墓の下からするすると青い茎が伸びてきます。茎の先に咲いたのは白い百合の花。その場面を、漱石は次のように描きます。

 「真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへはるかな上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前に出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した」

 男が百合の花から目を離し、遠い空を見ると「暁の星」が一つ瞬いていました。「百年はもうきていたんだな」とこの時はじめて気がついた、という男のつぶやきで第一夜は終わります。

 不思議な世界の小説ですね。ところで、ここに出てくる百合の花は、どんな意味をもつのでしょうか。漢語では「びゃくごう」、日本語ではもちろん「ゆり」と読みます。調べてみると、『万葉集』にこんな歌がありました。

 燈火(ともしび)の光に見ゆるさ百合花 後(ゆり)も会はむと思ひそめてき

 歌意は、「灯火の光に映えて見える百合の花ではないが、その花の名のように、後の世でもまた会おうと、あなたを思い染めたことだよ」。なるほど、古語の「ゆり」は、後世や将来を指すとともに、思う人との再会を願うという精神的ムーブメントを内包する言葉だったんですね。

 はてさて漱石先生の真意やいかに。でも、たぶん『夢十夜』の第一夜を飾るこの花は、スミレでもコスモスでもなく、「ゆり」でなければならなかったと思いますよ。

 (鳥飼)