THE EPOCH TIMES

芸術を愛した皇帝 北宋・徽宗の明と暗 

2018年02月14日 22時00分

 中国歴代の皇帝は、その個人に初めから権威があったわけではない。つまり、権威の象徴は個人ではなく、あくまでも天から授かったとされる皇宮の玉座にある。その前提の上で、覇権争いの末、その玉座についた人物に対して、後天的に絶大な権威が与えられるのである。

 だからこそ皇帝たる人物は、自身がその地位にふさわしい権威を付与されるよう、努力しなければならない使命をもつ。そのような皇帝の使命という視点から、文人皇帝として名高い北宋・徽宗について考えてみる。

 尊敬される皇帝の条件

 具体的には、古代の聖賢がのこした万巻の書を読んで勉学に励み、儒教道徳に基づく理想的な文治政治を実践し、太平の世を実現して、天下万民の尊敬を集める賢帝になることである。賢帝とは、皇帝自らが中国伝統文化の保護者であり、また実践者であることを指す。

 それをなし遂げた代表的な皇帝が、唐の太宗(李世民)であろう。

 李世民は、唐王朝の創業者である父・李淵(高祖)をよく支え、隋末唐初の群雄割拠のころには、武将として有能な働きをみせた。唐の第2代皇帝に即位して太宗となった李世民は、側近の魏徴(ぎちょう)に「皇帝である自分に誤りがあれば遠慮なく諫言するように」と命じた。魏徴もそれに応じて、皇帝に間違いがあれば、憚ることなく厳しく諌めた。

 これにより善政を行った唐は大いに栄え、その元号をとって「貞観の治」と呼ばれる最盛期を迎えたことは周知の通りである。

 唐の創業から約300年下った10世紀。907年に唐が滅ぶと、約50年にわたって五代十国時代という戦乱の時代が続いた。これを平定して、960年に宋(北宋)を建てたのが宋の太祖・趙匡胤(ちょうきょういん)である。

 宋の太祖もまた、創業者として非凡の才能を発揮した。唐を滅ぼした原因の一つに、節度使の地方軍閥化がある。太祖はこれを教訓として、節度使の権力を抑える一方、科挙合格者の官僚任命権を皇帝のもとに集めて、文治政治の中央集権化を進めたのである。

 趣味人皇帝の悲劇

 こうして賢帝から始まった宋王朝だったが、北宋末期にでた第8代皇帝・徽宗(きそう)は、25年間も在位しながら、およそ皇帝の器ではない不向きな人物であった。

 ところが、政治面では全く無能だったこの徽宗には、芸術分野における宋代第一の文人という、もう一つの評価がある。

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