<心の琴線> 信じられないものを信じて生きる

最近、『信じられないものを信じて生きなければダメだ』という言葉が頭に浮かぶ。

聖人でもなく有名人でもない、去年亡くなった私の母の言葉である。

母は、単に宗教に対する思いを語ったわけではなく、人間関係や人の心、自分生き方について語ったのだ、と私なりに解釈している。 

自分が送った半世紀の人生においても、信じていた人と結果的にダメになったり、いい仕事に就けずにいたり、自分の夢が簡単に破れたりと、思い通りにいかないことは日常茶飯事であった。

ましてや一生を通じて、本当に人を信じて生きるという事は、なかなか出来ることではないと思う。母は、また、「人の良いところを見て生きなければダメだ」とも教えてくれた。人は誰しも完璧ではなく欠点があり、言っていることと行なっていることの矛盾がたくさんある。日常生活で人は、仕事上や人間関係のストレスにさらされ、理不尽なことを言って怒鳴ったりイラついたりする。一緒に暮らす人の嫌なところを見てばかりいたら、とてもその人とは暮らしていけない。そんな生活の知恵を母は教えてくれたのだと思う。

人の心は移り変わりが激しく、年々、歳を重ね老いていく。健康状態や経済状態も常に安定してはいない。結婚式の宣誓の時、牧師さんが「良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、命ある限り汝の愛を誓うか」と聞くのは、人の心とは時や生活状況と共に移り変わるものであるという前提があってのことだからである。

また、人は年齢を重ねてくると自分自身の夢や希望も縮小されてしまう。容姿が衰え頭の働きも悪くなり、体力的にも自信が無くなってくるからだ。さて、そうなると自分自身に対しても本当に物事をきちんとこなせるのか信じられなくなる。今日、コレとコレをやろうと思っても、若いころにできた事の10分の1しか出来ないこともある。一日の内に、外で仕事をし、子どもの世話をし、本を読み、運動をして、家の中を綺麗にし、自分の身だしなみも整える。若いころに出来た事が、徐々に出来なくなる。頭に描き計画していたことが思うように出来なくなり自分自身に苛立ちを覚える。

そんな自分に対して「負けるながんばれ、他人ではなく自分自身を信じて生きろ!」と声をかけてみた。

人を信じられないと嘆くよりも、自分自身をしっかり持って信じて生きていくことが大切だ。

問題があったらその原因は他人ではなく自分。外に向かって求めても何も得られない、とつくづく感じる今日このごろである。
 

(山崎)