心のつぶやき: 嫉妬心を除き、平常でいること

大学院で理工科を研究していた私は、同じ研究室の友人2人が博士号を取得するために米国へ渡ると、共通の友人から聞かされた。一人はマサチューセッツ工科大学で、もう一人はカーネギーメロン大学という全米トップクラスの名門校だ。私はほんの少しの嫉妬を覚え、平常心が崩れるのを感じた。しかし、すぐに自分にこう言い聞かせた。

 「人と自分を比べるのはやめよう。様々な分野があり、自分より優れている人はたくさんいる。事実を素直に受けとめよう」

 このような考え方を口にすると、向上心がないとか、もっと貪欲になれとか言う人もいるだろう。世間ではそう言われるが、私は間違っていると思う。

 「人間は平等である」と人は言う。人権や尊厳などを考えれば、それは間違ってはいない。しかし、それがすべてに当てはまる訳ではない。若くして起業し、巨大なビルを建てた人。そのビルの陰で、明日のご飯にもありつけない人。ある人は数ヵ国語を操るほど語学に長けているが、ある人は母国語すらおぼつかない。各方面でずば抜けた才能を持つ人は山ほどいるし、こういう人を羨ましく想う人もたくさんいる。私もそうだった。

 小さい時から学校の成績が良く、行儀も良かった私は「優秀な子だ」と褒められることが多かった。次第に心の中で一種の優越感を覚えるようになっていたが、中国の名門高校に入学すると、初めて「上に這い上がる」ということを知った。優等生から普通の目立たない学生に転落し、息が詰まる想いだった。

 全国各地の優秀な人材が集まる大学で、私の存在はますます小さくなった。いつも一緒に授業を受けるある友人は、現代物理学などの難解な授業内容を全部消化していた。問題が解けなくて苦しんでいた私は、彼のことが羨ましかった。大学の4年間、優秀な人間がたくさん集まる環境で私は謙虚さを学び、私が平凡で、それほど目立たない人間であることを知った。

 中国には、「人と人が比べれば、悔しくて死んでしまう」という諺がある。誰かが政府の役人になったり、巨万の富を得たのを見て、どうしようもなく嫉妬する人がいる。理性的にその事実を受け入れられず、心のバランスを崩す。実際、自分もかつてはこのような人間だった。しかし、私は物事の理を知った。「人は平等ではなく、得手・不得手がある」ということを。

 肝心なのは、努力する心に嫉妬心があるかないか、ということではないだろうか。ライバルを打ち負かすことに精を出し、常に人と競争しながら生きるとは、どんなに心が疲れることだろう。真にすばらしい人とは、努力しながらも常に平常心を保つ人だ。こういう人に、私はなりたい。
 

(作者・浄源/翻訳・叶子)