【党文化の解体】第3章(25)

目次

5.多種の文芸形式を利用し、党文化を注入する
1)映像を利用し、党文化を注入する
 (1)党の最も重要視する芸術としての映画
 (2)主調と多様化
2)演劇、歌舞、大衆演芸など多種な文芸形式を利用し、党文化を注入する
 (1)民族的な文化に寄生する
 (2)八億人に八つの模範劇
 (3)審美眼の習慣性に見られる時代遅れ
 (4)心情の変化を利用
 (5)漫才・演芸・コントのもつ独特の作用
 (6)中共の文芸作品に滲み付いた激情と闘争性
結語

5.多種の文芸形式を利用し、党文化を注入する

 共産党の認識からすれば、文芸というものは社会上層部の一部であり、支配階級の利益のためにのみ存在する。中共が政権奪取後、経済面においては、文芸出演団体を国有化し、組織面においては芸能人を「体制内部の人」に変身させ、彼らに対して思想的改造を行ってきた。

 文芸創作上においては、文芸界に対していわば耳を引っ張り面と向かって命じるといったような極めて強引でかつ厳密な統制を行い、短期間で、すべての文芸形式、例えば映画、演劇、歌舞、大衆演芸など、これらをすべて国家権力機関の一部に変身させ、党文化を注入する道具と化した。

1)映像を利用し、党文化を注入する
 (1)党の最も重要視する芸術としての映画

 二十世紀初頭から盛んになった映画は、斬新な芸術および娯楽の形式として、伝統芸術の形式に比べて大いに優れており、社会に迅速に普及し始めた。嗅覚の鋭い共産党は早くから映画に注目し始めていた。レーニンは「映画は大衆を教育するための最も有力な道具の一つである」、「すべての芸術の中で、映画は我々にとって最も重要である」と言った。

 1949年8月、中共宣伝部は「映画事業の強化に関する決定」を公布した。「決定」では、「映画という芸術はもっとも広大な大衆性と宣伝効果があり、この事業を断固強化し、中国全土と世界的な国際上で我が党及び新民主主義革命とその建設をより有利に宣伝しなければならない」と記している。

 1951年、中共が政権奪取後の初めての思想改造運動は、映画「武訓伝」の批判から始まった。毛沢東は自ら筆をとり、大げさに「武訓伝」批判を繰り広げた。毛沢東がこうした行動をとったことにより、その後の党首魁は映画に対して格別に重視することとなった。

 1953年、映画産業に対するいわゆる「社会主義的改造」が完全に終了し、その他の民族産業(自国の民間資本で経営されている産業)に対する改造よりも早かった。旧ソ連の専門家の指導のもとで、中共は映画産業を第1次5ヵ年計画に組み込み、映画産業に対して行政による指令性管理を実施した。

 1949から66年の間、中共は全部でドキュメント映画700本強を撮影し、全面的に「歴史が中共を選んだ」の嘘偽りを捏造、中共の各時期における政策を映像化し、党の代表的な人物を際立たせ、伝統的文化や伝統的な人物を貶して低く評価した。

 この時期の代表的作品は、「白毛女」、「鉄鋼戦士」、「南征北戦」、「青春の歌」、「紅旗譜」、「地雷戦」、「地道戦」、「李双双」、「紅日」、「小年兵・張」、「英雄児女」、「野火春風闘古城」、「ネオンの下の哨兵」などである。これらの映画の中で、中共の指導者、中共の所謂「英雄模範人物」、心理的にも陰気で行動も下賤な中共の特務工作員でさえ讃えられる対象となった。

 映画というメディア形式を通じて、中共は「迫真の嘘偽りを捏造」し、容姿端麗な男女の俳優、詩情溢れる場面設定の雰囲気、伝説のようなあるいは時代を反映した詩歌的なストーリー設計などで、最大限に党の代表的人物を持ち上げる役割を果たした。

 人々の心理上では、芸術作品の中の人物はより「本質的」で普遍性を具有し、さらには党の代表としての資格を持っていると認識しがちなのであるが、実際は党の仮面を見ているにすぎない。

 

(イラスト・大紀元)

1949年以前、映画は主として都会の芸術であった。

 映画による宣伝範囲を拡大させるため、中共は行政区画を単位として映画を封切り、系統的に映画放映隊を作り、宣伝の触角を農村や工場・鉱区といった社会の末端部分へ伸ばした。

 1949年の中国全土における映画放映単位は646個、1957年に至ると9,965個にまで増え、そのうち映画館は1,030軒、映画放映隊は6,692個であった。労働組合の放映隊による放映回数は、1954年一年間で11万4,000回以上に上り、観客の数は延べ1億1千万人に達した。

 この種の映画放映隊は80年代半ばごろまで活躍し、党文化の普及に大きな役割を果たした。文化大革命の開始後、「17年」映画(上述した1949~66年間に製作した映画)の90%以上が毒草として批判され、文芸分野においては「様板劇」(文化大革命中の用語で、革命を鼓吹する内容をもつ現代京劇)の天下となった。

 1979年、「17年」映画は大量に解禁され、その年に全国民が年間に映画を見る回数は平均で28回強となり、全国の映画観賞人数は延べ293億人に上った。

 このような現象は実に中共の統制戦略を反映している。経済上において国民が無一物にさせられた後、経済的状況が少しでも好転したら、人々は中共に対して恩義に深く感謝するようになり、文芸上において国民が無一物になった後、人々は中共による党文化注入の宣伝を甘い飴のように受け入れるようになった。

 メディア研究によれば、ある種のメディアは人間の五感により多く影響を与えれば与えるほど、宣伝効果が得られるという。映画は一つの芸術として、文学、音楽、美術、演技などを総合しており、全面的に人間の五感に影響を与えようとする宣伝手法はかなり強力的なものである。

 中共は映画を通じて、党の代表的人物のイメージを数多く作り上げ、彼らの喋り方、表情、動作等々は、人々特に青少年たちが模倣する対象となった。たとえば、毛沢東が地図の前で陣頭指揮を揮う様子、旧ソ連映画の中でレーニンが演説する様子などがそれである。

 映画の中の多くの台詞が、人々の日常会話のなかにまで入り込み、たとえば映画「英雄児女」の俳優・王成の台詞であった「勝利のため、私に向かって発砲せよ」は今日までずっと流行っている。映画は「知らず知らずの内に感化する」方式で、人々の心理や行動様式を変化させ、その効果は測り知れないほど大きいものである。

 中共の映画を重視する程度は、文学のそれを遥かに凌駕しているので、時間の経過につれてその程度も増している。1989年以後、中共はイデオロギー上においては収束する傾向にあって、1990~92年の間、映画界においては一つ大きな「主調」のピークを迎えた。

(続く)