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古代と異なる中秋節 月餅はいつから普及したのか?

古代と異なる中秋節 はいつから普及したのか?

中秋節の贈り物は、昔から中秋の名物として親しまれてきました。中秋節の贈り物は、いつ頃から始まったのでしょうか?また、古代と現代では、中秋節の贈り物が異なっています。古代や中世の中秋節で、を贈らなければ、何を贈ったのでしょうか?そもそもはいつから普及し、形は今と同じでしょうか?これらを一緒に推測してみましょう。

古代と現代で「2つ」の中秋がある

昔から今日に至るまで「2つ」の中秋があり、お祝いや贈り物の習慣も大きく異なっています。1つは、太陽がもたらす「秋分」の日です。節気において本来の「中秋」であり、秋の中間点として、昼と夜の長さがほぼ等しい日(今年は923日)になります。もう1つは、民間での「中秋節」は仲秋の望日で、現在で言えば旧暦の815日なのです。

はるか昔の古代人は、「中秋」、つまり秋分の日を非常に重要視していました。この日には祭りが行われ、彼らは畏敬の念を表しました。この祭りは、中国文化の歴史と同じくらい古いものです。『大戴礼記』によると、古代の夏、商、周の時代に「夕」と呼ばれる秋の祭りがあったことが分かります。『周禮注疏』では、「天子常春分朝日、秋分夕」(天子、常に春分に太陽をまつり、秋分にをまつる)と記されています。夏、商、周の時代から清の時代まで、中秋にはいつも天子が百官を率いて、西郊でを祭る儀式を行いました。中秋節にを祭る元の由来は、この「夕」と呼ばれる儀式から来ています。

中秋節」という言葉は、の時代に初めて登場しました。『洞仙歌』の中に、の末期から宋の初期にかけて「桂風高處,漸近中秋節」(訳・風が強く、中秋節が近づいてきた)という一句がありました。の開元の時期に、すでに中秋の夜にを楽しむことが流行となり、の玄宗も、宮殿でを楽しむ宴会を催すことを好みました。しかし、の『通典』に記録された公式の休日には、まだ「中秋節」はありませんでした。

北宋の時代になると、中秋節はもはや1つの大きなお祭りであり、喜びと賑わいに満ちていました。京の大通りでは、店舗を新しく塗装したり、飾りつけし、お酒を出して客を集めます。『東京夢華録』にはその様子が記されています。「中秋節前,諸店皆賣新酒,重新結絡門面彩樓花頭,畫竿醉仙錦飾」(訳・中秋節の前には、どの店も新酒を売り、建物の正面の装飾が一新された)と記載されています。その日の夜は、皆がを眺めて楽しみました。「中秋の夜、貴家では台榭を飾り、民間は酒楼で行楽」と言われ、夜市には人や車が集まり、街は賑やかになりました。

南宋の時代も同じように、中秋節を賑やかに祝っていました。呉自牧の『夢梁録』にも、中秋節の行楽が書かれています。「八十五日中秋節、此の日秋の半になり、『中秋』と謂う。此の夜常より色倍に明るく、又『夕』と謂う」この日には皆、楼や台に登り、見する以外、夜間の外出禁止令も中止され、行楽や祭りを存分に楽しみました。

古代の中秋節の贈り物は?

次に、中秋節の贈り物について見てみましょう。中秋節にを贈らない場合、古代人は何を贈ったのでしょうか? 周の王朝では、周王が秋分に祭りと同時に、人々を大切にした儀式制度がありました。当時、人々はお年寄りを尊敬していたので、中秋節ではではなく、お粥をお年寄りの世話をするために与えました。お粥は栄養があり、消化しやすいため、お年寄りが食べるのに適しています。このような儀式は、の時代にも存在し、の時代の韓鄂の『歳華紀麗』には、中秋節にお年寄りに敬意を払い、食べ物や杖を与えたと記録されています。この時、はまだ、中秋節のブームではありませんでした。

宋の時代でようやく「」が登場しましたが、中秋節の食べ物ではありませんでした。南宋の時代、首都の銭(杭州)の市場では、「」が一般的に売られていましたが、あぶって焼いた焼きではなく、蒸し菓子でした。宋の時代の周密の風土記『武林旧事』によると、それを「蒸し点心」に分類し、包子や豆沙餡、荷葉と並べ、一般的な民間の軽食の点心として、1年中販売していました。

中秋節にを食べる習慣が普及したのはいつから?

中秋節にを食べることが一般庶民の習慣となり、を贈ることが中秋節の風物詩になったのは、いつ頃からでしょうか? 元朝末期に「八十五殺韃子(815日にモンゴル人を殺せ)」と書いた紙をに埋め込んだという話がありますが、それは歴代の史冊には見られません。明の時代になると、中秋節はまた、「団らん節」とも呼ばれ、一般的に大きくて丸いを作り、祭りました。それには「も丸い、も丸い、人は団らん」という願いが込められています。当時のの大きさに関して、劉侗の『帝京景物略』では、「の径二尺」と記載があり、祭りの後に必ず誰もが食べるようにしました。はまた、友達や親戚がお互いに贈るのに最適な贈り物で、「団らん」の祝福を送る意味が込められています。明の時代の詩人の夏日は、『中秋日恭述』で「は黄金のようだ」と表現しましたが、黄金色のは、恐らくあぶって焼いたものでしょう。

清の時代、中秋節の風習は、明の方式を踏襲しました。顧禄の『清嘉録』には、「呉縣志:中秋売ると謂う」と記されており、富察敦崇の『燕京歳時記・』でも、「至るところでが売り出され、大きいものは直径一尺ほどあり、表にはの宮殿とうさぎの模様がついている。祭りが終わった後、家族でを分け合い、みんな一部分ずつもらい、まだ里帰りしていない家族の分も分けてあげるので、大晦日までとっておいて食べる家もある。それを『団らんの』という」と記されています。

清の時代の章回小説にも、のシーンが登場しました。『紅楼夢』に、中秋節の前日から栄府では「スイカもも準備できたので、あとは配るだけ」と賈家の人々が見をし、中秋節を過ごす様子が書かれています。このような風土民俗誌の記録から、明や清の時代に、いかにが普及していたのかが分かります。

(翻訳・瑠璃)