【叡智ある故事】放蕩息子の善念が村を飢餓から救う

このシリーズ【叡智ある故事】は、心を昇華させ、伝統回帰への手掛かりとなる美徳に対して、心からの敬愛を啓発することを目的としています。このシリーズをお楽しみいただければ幸いです。

万里の長城(Illustration –zhu difeng/Shutterstock)

この物語は、浙江省西部の山間部にある農村で起きたことです。
この村には、困りものの若者が一人いました。

若くて力が強いくせに、全く働かずに、毎日ぶらぶらするばかり。

一日中まともな姿をしていないこの若者を、皆は「浪子(ランズ)」と呼んで、嫌っていました。浪子とは、日本語で言えば「遊び人」や「放蕩息子」というような、ひどく悪い語感の呼び名です。

この浪子は、肉を食べるために村の鶏を盗み、犬も盗みます。もちろん自分で耕作などしません。あげくには、いつも村の娘にちょっかいを出して、まったく村の人々を落ち着かせないのです。

村人は誰もが、この浪子に恨みをもち、また恐れを抱いていました。

皆は「あいつが死ねばいい」と心の底で念じていましたが、そんな村人の願い通りにはいかないもので、狼藉ものの浪子はなかなか死にません。

ある日、ある災難が突然この小さな山村に襲いかかってきました。

村人たちが遠くの空を眺めると、恐ろしい黒雲がもつれながら、村に向かって迫ってくるのが見えました。村は、すぐに黒雲に呑みこまれました。

瞬く間に雷が鳴り、盆をひっくりかえしたような大雨が降り注ぎます。天は雷に引き裂かれたようです。暴風雨は、一向に止みません。

村人が丹精込めてつくった作物が、大きく倒れているのが見えました。しかし、村人は手をこまねいているばかりで、どうすることもできないのです。

俗に「麦たおれて草になり、穀たおれて糠(ぬか)になる」という言葉があります。収穫前の作物が、荒天のため全滅することです。

「ああ、これで全てが終わる。今年の収穫は絶望的だ」
 

雨の中の山々(Illustration –Stone36/Shutterstock)
 

村人たちは雷と大雨を避け、家のなかで恐れおののいていました。食べるものがなくては、これからの暮らしが立つはずがありません。しかし、そのことを考える人はいませんでした。飢える運命が分かり過ぎていたので、考えることさえ恐ろしかったのでしょう。

普段はまともな仕事もしてない浪子でしたが、この暴風雨のときは、なぜか急に畑に出たいという衝動にかられました。

浪子にも親がいます。その親に「外に出るのは危険だ」と言われたのですが、その忠告には従わず、浪子は大雨の降る外に出ました。

あきれ果てた父親は、「行け。行ってしまえ。お前のような馬鹿息子は、雷が落ちても助けてやるものか!」と言って、呪いの言葉さえかけたのです。

浪子は、その呪いの言葉に驚きはしませんでした。こんな悪口を聞いたのは、もちろん初めてではありません。村では誰も、彼を良く言う人はいなかったからです。
家族からの罵りを背に受けながら、浪子は鍬を手に取り、暴風雨に突入しました。
浪子が雨のなかを走って麦畑に着いた時は、さすがに目の前の光景に驚きました。豊かに実った麦が、冠水した畑に倒れています。

作物を救うために、急いで行動しなければならないことを知った浪子は、「これでは村人の苦労はすべて無駄になる。皆が餓死する。ここで俺が、何とかしなければならないんだ」と、荒れ狂う天に向かって決意したのです。

雨上がりの畑(Shutterstock)

天は、あいかわらず雷が鳴り、稲妻が光っています。嵐が止む気配はないので、浪子は袖をまくって力仕事を始めました。

倒れている麦を持ち上げて、一列一列支えていきます。自分の畑でも、他人の畑でも関係なく、そうしました。一面の広い麦畑には、彼一人しかいません。

いつでも雷に打たれる危険があるにもかかわらず、浪子は、ただ村の人々が飢えずに生きていかなければならないと思い、雨のなかで過酷な仕事を続けました。

古語にもあるように「善念は天を感動させることができる」と言います。

その報いには、二つあります。彼を天に昇らせるか、あるいは神仏が彼の善念と同胞を助けようとする無私の善行に応えて、奇跡を起こすかです。

今回は後者の結果だったようで、彼が畑での仕事を終えた後、黒雲が散って消えたのです。

雨が止み、再び明るくなりました。あたかも天上の神々が、かつての迷惑者が見せた善良さと無私ぶりを、称賛しているかのようでした。
 

雲間から陽光が輝く(Shutterstock)

まさに、釈迦牟尼仏がおっしゃった「運命は自己のなかから造られる。人の外見は、その内面の心が反映される。世の中の全ては、そうした変化のなかから生じたものだ」という言葉が当てはまります。

善なる念に貫かれた考え方は、人を正しい道に導き、成就させることができるものです。

この度の浪子の行いも、彼自身に幸運をもたらしました。彼をとりまく全てが、良い方向へ変化したのです。

彼は心身ともに、へとへとに疲れましたが、精神の昇華と奮い立ちを初めて感じることができました。

そうです。彼は自分が何をすべきかを、ここで理解したのです。「自分を良い人間にしなければならない」と。

村の人々は、浪子の「不思議な変化」を目にして以来、ほどなくして彼を尊重するようになりました。その日から、彼は正しい道を歩み、勤勉な人間に生まれ変わったのです。

この物語は、現代の私たちにどんな教訓を示しているでしょうか。

それは、あるいは人生の中で自分が暗闇や憂鬱な日々に遭遇したときに、善念を堅持して貫くことが、私たちを再び光明のなかへ導いてくれることかもしれません。

(翻訳編集・鳥飼聡)