『捜神記』より:「善悪に報いあり」死の淵からの生還

中国の志怪小説集『捜神記(そうじんき)』は、東晋の時代に干宝(かんぽう)によって著されました。そのなかに、こんな話があります。

西晋(265~316)時代のことです。散騎侍郎(さんきじろう)という官職に就いていた王祐という人物が重病になりました。王祐は、自身の命がもう残り少ないと覚悟を決めました。老いた母に向かい、子として先立つ不孝を詫び、別れを告げました。

そのとき、遠くから取り接ぎの者の声が聞こえました。家の主人である王祐に、某(なにがし)という訪問客があったと言います。

どこかで聞き覚えのある名前だとは思いましたが、気がつくと病床にある王祐の枕元へ、その人物はもう来ていました。

「おお、王祐どの。初めてお目にかかるが、貴殿と私とは同郷のよしみもある、同じ役人同士です。そのご縁もあるゆえ、お話し申し上げる。今年は国家に大事が起こります。3人の将軍が派遣され、今それぞれが人を集めて兵を徴集しています。われら十数人は、趙公明閣下の参謀を務めております」

王祐は、その人物がこの世のものではないことを知っていました。自身の死が近いゆえに、こうして冥界の幽鬼が自分を誘いにきたのだろうと見抜いていたのです。趙公明は道教の神の一人で、「瘟神」つまり疫病を司る神とされています。

その人物(つまり幽鬼)は、王祐にこう言います。

「人は、一度は死ぬものです。私は今、三千の兵を率いることになっていますが、これの名簿を扱う係を、ぜひ王祐どのにお願いしたいのです。いかがですかな。この願い、お断りなさいますな」

王祐は、すぐには答えません。相手の言う「三千の兵」とは、もちろん死んだ兵士でしょう。名簿とは「得度簿」のことで、つまり死者の生前の善行悪行を全て記録する帳簿です。その記録係をするという王祐も、当然「死者」になっているわけです。

すでに母に別れを告げた王祐でしたが、やはり死んでは困ると思い、こう答えることにしました。

「私の老母は高齢のうえ、ほかに世話をする兄弟はいません。私が死ぬと、母の面倒をみるものがいないのです」

王祐はそう言って、涙で声を詰まらせました。それを聞いた相手は、考えを変えたようです。

「王祐どの。あなたは天子のお側近くに仕える身でありながら、不正に私財を蓄えることもなく、また先ほど母君にお別れを告げた言葉も、まことに切なる心情がこもっていました。されば貴殿こそは国士の鑑です。あなたのような人材を死なせは致しません。私が、なんとかしましょう」

そう言い残すと、その相手は部屋から消えるように出て行きました。

次の日も、その次の日も、王祐のもとに現れました。王祐のほうから、こう訊ねました。

「あなたは先日、私の命を救ってくれると申されたが、そのお言葉は本当でございますか」

「もちろんです。私が王祐どのと交わした約束を、違えることはありません」
相手の腰から下を見ると、引き連れた供の者が数百人そこに来ていました。いずれも背丈は2尺ばかりの小兵で、黒い軍服を身にまとい、顔には赤い油が塗られています。

王祐は、来てくれた人々の労をねぎらうため酒をふるまおうとしましたが、相手の男が「それはご無用」と固辞します。

男はさらに、「病は、人の体のなかで火が燃えるようなもの。水をかけねばならぬ」と言い、王祐の掛け布団をめくって、寝ている王祐に水を浴びせました。さらに男が言うには、王祐の敷いている敷物の下に「赤い筆」を10本ほど置いたとのこと。

「その筆を人に与えて、髪に差させるとよい」と言い残し、王祐の手を握ってから、男とその一行は姿を消しました。

それから王祐は、ぐっすり眠りました。夜中にふと目を覚まし、下僕を呼んでこう聞きました。

「先ほど、神がわしに水を浴びせて行った。びしょ濡れになっておるであろう」
下僕が布団をめくってみると、確かに水はありました。ただしその水は、蓮の葉のうえの露のように、上下の布団の間で玉のように固まっているのです。その水を集めて量ってみると、三升七合もありました。

この時、王祐の病気は3分の2ほど回復しており、数日後には完治してしまいました。

それからしばらくして、あの幽鬼が「人を集める」と言い残したように、多くの人が疫病や戦乱で死にました。

ただし、幽鬼が「赤い筆」を与えた人は、疫病にあっても戦乱にあっても全く無事で、一人も死ななかったのです。

この一件の前に、妖しげな予言の書が流布していました。それには「天帝は、趙公明や鐘士季など三人の将軍を下界へ遣わした。それぞれが幽鬼どもを督励して、下界の人間の命を多く奪っていく」とありました。

王祐は、病気が治ったあとでこの書物を目にしました。「あの時の幽鬼も、たしか趙公明と言っていたな」と、ぼんやりと思い出しました。

さて、以上が『捜神記』のその逸話の概要です。

人の生死は、あるいは初めから定められているのかも知れません。しかし、王祐の清廉な勤務ぶりや、母親を思う一途な孝心は、命を奪いに来た幽鬼さえも心変わりさせ、死ぬ運命だった王祐を再び生かしたのです。

神は、人が徳に基づいて行動するか否かを見ています。
善人として生きた者には、良い帰結があります。

しかし悪人や無徳の者として荒んだ生き方をすれば、その最期は必ず悪しき報いを受けることになるでしょう。

善悪には、全て報いがある。これは虚構の話ではありません。

(文・喜鵲/翻訳編集・鳥飼聡)