婚約者が病や醜い容姿でも添い遂げる  信義を守る君子は幸いなり(2)

もし、結婚前に婚約者が身障者だったり、容姿が醜かったり、長く病気を患っていたりしていたら、皆さんはどうしますか?この問いに対して、多くの古人たちが敬服するべき答えを出しています。

韓雲門 盲となった許嫁と偕老

明の時代、河南省項城県の韓雲門という男が、戚家の娘と婚約していました。しかし、不幸は予期しない時にやって来ました。婚約から間もなくして、戚家の娘は突然失明してしまったのです。

戚家の人々は、韓雲門は若くして文才があり、これから出世するに違いない。このような将来有望な人物には盲目の娘はふさわしくないと考え、娘を一生実家に置くことにし、この婚約は破棄すると言いました。

韓雲門の両親も、この申し出に納得し、婚約を取りやめることに賛成しました。しかし、韓雲門は断固として同意せず、儀式に則って盲目の少女と結婚するのを決めました。 戚家はこの信義に感動し、美しい下女を伴って嫁がせました。

韓雲門は「美人を見ると心に響くのは浮世の習いですから、見ないほうが夫婦の和を保たれると思います」と言い、その美しい下女を戚家のもとに送り返しました。

その後、韓雲門は教育担当の官吏となりました。妻も一緒に連れてきて、仲睦まじく暮らしました。これを聞いた河南の人々は、韓雲門を君子と褒め称え、宋の時代に韓雲門と同じく盲の許嫁と添いとげた劉廷式が再び現れたと賞賛しました。

 

長患いの許嫁を見捨てない劉以平

劉以平は、山西省猗氏県出身で、明の万暦8年(1580年)の庚辰科進士試験3級に合格した百五十二位となり、後に陝西省大僕寺長官に任命されました。

当初、劉家は関家の長女を劉以平の妻として迎え入れる事になっていましたが、結婚式が行われる前に、その関家の長女が病気になってしまいました。 結婚式当日、長女はまだ病気が治っておらず、関家は仕方なく次女を姉の代わりに結婚させることにしました。

結婚式の当日、新婚の部屋で「床盃」の儀式を行っている時、劉以平は関家の娘が病気でやつれた顔をしていないことに気づき、仲人にその理由を尋ねました。仲人は真実を語りました。

劉以平は、「結婚を約束したのは、病気になった長女です。彼女を見捨てるのは不義であり、彼女がすぐに死んでしまうのではないかと心配になります。しかし、関家の次女は既に我が家に嫁いでおり、実家に帰って評判を落とす理由がないから、私の弟と結婚させるのが良いと思います」と言いました。

そこで、劉以平は病気を患っている関家の長女を直接迎えに行きました。すると関家の長女はやはり悲しんでおり、家族にもう死にたいと懇願していることが分かりました。しかし、劉以平が迎えに来て、長女は幸せな気分になり、すぐに病気が回復しました。結局、兄弟の二人は同日に結婚しました。劉以平はその後、太僕卿(中国古代の官職)に昇格しました。

 

言うまでもなく、これらの人物は高い道徳を持っている君子です。『左傳』より「夫和み而義しく、妻柔にし而正しい」と述べています。『禮記・禮運』には「夫義、婦聽」とあります。

つまり、夫としては、品行方正であるべきであり、妻を扶養し守る義務を果たし、公正と仁義を貫くべきです。妻としては、優しく思いやりがあり、かつ端正で温順であるべきです。

上記の物語の主人公たちはこのような愛し合う関係を実践し、その美しい物語は後世に語り継がれたのです。
 

參考資料: 

『太上感応篇』 

清の『觚賸』 

『清稗類鈔・婚姻類7』 

(翻訳・阮修筠)