「すみだ川 今昔」 東京・隅田公園の桜 

東京の墨田区に空高くそびえる東京スカイツリーが完成したのは2012年2月29日。電波塔および観光施設として開業したのは同年5月22日でした。ちょうど10年前のことです。

今ではすっかり下町の風景のなかに定着したこの塔の高さは634メートル。古い国名の武蔵にちなみ、その高さが六三四(むさし)に決められたことは、江戸文化が最も貴重とする価値観の「粋(いき)」によく合っていると言ってよいでしょう。

川の流れは時代によっていくらでも変わりますので、あまり厳密に議論するのは、粋の反対である野暮(やぼ)になってしまいますが、いま東京スカイツリーが建っているその地は、実は「武蔵」ではありませんでした。

旧国名でいうと隅田川の西岸が武蔵、スカイツリーのある東岸は下総(しもうさ)です。
その二国をつなぐ橋を両国橋と呼び、西岸の浅草側からみた対岸を向島(むこうじま)と呼びますので、この一すじの川が、人々の意識上の境界線になっていたことは確かなようです。

「すみだ河」という川の名称が、平安時代の『伊勢物語』に見られます。
『伊勢物語』はおよそ千年前の作品で、その成立も作者も詳しくは伝わらない歌物語ですが、実在の貴族である在原業平(ありわらのなりひら)とみられる主人公が多く登場します。確証はありませんが、業平その人が作者であると考えられています。

その『伊勢物語』のなかでも有名な「東下り」の一場面です。
「なほ、ゆきゆきて、武蔵のくにと下総(しもつふさ)のくにとの中に、いと大(おほ)きなる河(かは)あり。それをすみだ河といふ。(中略)さる折しも、白き鳥の、嘴(はし)と足と赤き、鴫(しぎ)のおほきさなる、水の上に遊びつつ魚(いお)を食ふ」

東下りの一行は、京都を離れて、はるばる東国の隅田川まで来ました。そこで川面を飛ぶ白い水鳥を見ます。渡し船の船頭に鳥の名を聞くと、「あれは都鳥(みやこどり)という鳥でごぜえますよ」。

それを聞いて、旅の一行の望郷の念が、あふれる涙とともに爆発します。
「名にし負はば、いざ言問はん都鳥。我が思ふ人は、ありやなしやと」。
歌意は「おお、おまえが都鳥という名をもっている鳥ならば、いざ問いたずねよう。京の都に残してきた私の思い人は、無事に生きているか。死んでしまったか」。

古今和歌集』に在原業平の作として載せられているこの一首は、おそらく一行の心情を吐露して余りあるものだったのでしょう。東下りの男たちは、誰もが都に残してきた妻や恋人を思い出し、「舟こぞりて泣きにけり」と船上が号泣状態になりました。

今日の隅田川にかかる橋の多くは、いずれも大正末年から昭和初期にかけてつくられた見事な姿をもつ鉄橋です。そのなかの一つ、賑やかな浅草からほど近い場所に、『伊勢物語』の文章に由来する「言問橋(ことといばし)」があります。

言問橋。現在の鉄橋は昭和3年(1928)に竣工したものです。(大紀元)

千年前の隅田川の風景は、なかなか現代人が想像するには容易でないものがありますが、120年ほど前の明治末年の隅田川であれば、私たち令和の日本人にも、まぶしいほどの春の陽光とともに、鮮やかに思い描くことができます。

瀧廉太郎(1879~1903)の作曲による歌曲集『四季』が発表されたのは、明治33年(1900)でした。そのなかの「花」という歌は、おそらく「故郷(ふるさと)」や「荒城の月」と並ぶ、日本人の誰もが子供の頃から親しんだ国民歌と言ってもよいでしょう。

「春のうららの隅田川、のぼりくだりの船人が、櫂のしずくも花と散る、ながめを何にたとうべき」。

この時代、荷船の船頭が扱う船は、長い艪(ろ)をゆらして進む和船がほとんどでした。
では、この歌に見られるような櫂(かい)つまりオールを使い、漕ぎ手の背中の方向へ進む船と言えば、何でしょうか。

これは和船ではなく、競技用のボートと考えられます。
漕艇(そうてい)は明治期に西洋からきた新しいスポーツで、大学や師範学校のボート部員を中心に、当時の隅田川では盛んに行われていました。

そうするとこの歌に描かれた光景は、20歳の作曲者が生んだ躍動的な旋律とともに、明るい春の川面にたくましい若者の青春がはじける、誠に生命力あふれた映像になります。

現代の隅田川を行き交う船。(大紀元)

「錦おりなす長堤に、暮るればのぼるおぼろ月」。そんな隅田川の堤防に、コロナ禍つづく今年も見事なが咲きました。取材で訪れたのは3月30日で、川風が心地よい、のどかな春の日です。

今年の隅田川の桜は、まさに今日が満開の花盛り。平日でしたが、見頃の桜を求めてやってきた多くの人々が、感染防止に留意しながら、ゆるやかに歩を進めています。

隅田公園は、隅田川をはさむ両岸に設けられた公園で、都内でも桜の名所の一つに数えられます。川面には、千年前と同じく都鳥(ユリカモメ)が飛んでいます。

江戸期の享保年間に、第8代将軍徳川吉宗が命じて隅田川沿いに桜を植えさせました。
俗説の一つですが、吉宗は、多くの花見客に踏み固めさせることで堤防を強固にしたとも言われています。

もっとも、当時の桜はヤマザクラなどの古種が中心で、幕末から明治にかけて品種改良されたソメイヨシノ(染井吉野)ではありません。今日、私たちが目にする東京下町の桜の多くは、戦時中の大空襲で焼土と化したこの土地に、戦後復興の証として新たに植えられたものです。

隅田公園(浅草側)に咲く桜。(大紀元)

日本人は、全国に桜の咲くこの時季が大好きです。

その理由はおそらく、若い人にとってはこの時期が夢多き新生活の始まりであり、人生の晩年を送る人にとっては、今年も桜を見られたことに対する素朴な喜びと感動を覚えるからでしょう。

さらには、迷い多き世の人々にとって、変わらぬ大自然の営みに触れ、心から安堵できるひと時になるからかと想像されます。

 

 

 

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鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。